その効率化は不足リソースの奪い合いに過ぎない
東京都内のバドミントンコートの一般開放の様相
僕は高校時代〜大学時代、バドミントンを嗜んでいたのですが、最近思い立ってバドミントンやりたいな〜となりまして、体育館を探すことにしました。
https://allabout.co.jp/gm/gc/451008/#google_vignette
僕がバドミントンを習慣的にやっていたのは、もう7年前ぐらいですので、様相も変わっているのかなと思いながら調べてみたところ、ほぼ全く変わっていません。
具体的には、
- 7年前に一般開放(体育館を個人が利用できるようにすることをこう呼びます)をしていた区は、今も一般開放している
- 一般開放していなかった区は、今もしていない
- 一般開放されている体育館はそもそも絶対数が少なく、団体での予約が一般的なので、継続的かつ高頻度に取り組みたい場合には団体に所属するのが現実的である
- 一般開放されている体育館を利用する上では、予約または先着、あるいは先着でかつ混み合っていたら抽選というシステムでコートを確保する必要がある
- 予約ができるところは限られていて、先着制度のところが多い
- コートを確保できたとしても、1コートに対して1グループのみが割り当てられるとは限らず、その場合は一定時間ごとのローテーションで利用する。ローテーションは、その施設の職員の指示による場合と、居合わせた人同士で取り決める場合とがある
- 一般開放の料金は概ね500円前後で、1,000円かかるところは少ない
といった様相です。
都内の区運営体育館のバドミントンコートの一般開放システムのイケていない点
これらの仕組みに対しては、
- 予約の場合、予約のシステムがあまりにも前時代的すぎる
- 先着という仕組みが、そもそも体育館に移動コスト(時間・金銭)をかけた上で行って、先着で取れないということもありうるということに対して、都内という時間に対する価値の比重が高い人が多い環境下においてあまりにも鈍感すぎる
- 予約に関しても、予約開始時刻が決まっていて実質的に先着なので、先着で取ることに対する意味のない競争が発生する
- ローテーションを居合わせた個人同士に任せる仕組みは、トラブルの温床になりうるし、知らない人同士で気を遣い合うのは精神的コストが高い
- 料金設定が安すぎることで、時間的コストを厭わない人ばかりしか利用できない
といった点が気になりましたが、ここの論点について詳しい深堀りをしていくと全部についてそれぞれ1記事ぐらい書けそうなので、今日はあまり深く言及しないことにします。
なぜ区運営の体育館はイケてない仕組みになるのか
これらの諸問題が発生する根本的な要因としては、一言で言いますと「運営者にインセンティブも能力もない」ことが理由というのが、僕の意見です。
区立体育館等の運営については、多くの場合には一般社団法人がいわゆる指定管理者として委託を受けて運営します。指定管理者として施設を運営する際には、例えば料金について次のような制約が課されていて、民間施設と比較して、運営の自由度が高くありません。
- 事前承認制: 指定管理者が利用料金を設定・変更する際には、事前に自治体(施設の所有者)の承認が必要で、自治体が設定するガイドラインや上限に基づいて利用料金が決定される
- 公共性の維持: 体育館などの公共施設は、市民の健康増進やスポーツの振興など、公共の利益を目的としているため、利用料金が高すぎると、施設の公共性が損なわれる可能性があるという考え方が適応される。自治体はこの点を考慮し、指定管理者に対して適正な価格設定を求める。
- 収支計画の審査: 指定管理者が運営するにあたり、収支計画が自治体によって審査される。この計画には、利用料金が収益の一部として含まれるため、過度に高い料金設定は認められにくい。利用者にとって適正な料金水準が維持されるよう、自治体は継続的にモニタリングがなされる。
これらの制約により、指定管理者は一定の範囲内で利用料金を設定することができるものの、公共の利益と収益性のバランスを保ちながら運営することが求められるというわけです。
さて、このような中で指定管理者には、上述したような諸問題を解決する上で以下2つの重要な要素が希薄である場合が多いと考えています。
- インセンティブ:行政との取り決めで料金の制約が決まっていて、一般社団法人という法人形態上の理由からも営利性の追求が難しい以上、今やっていること以上のより便利な運営を追求する旨みがない
- 能力:割り当てられる予算規模が、ITによる利便性向上や適切な仕組み化を考えたときにあまりにも小さく、かつ各社団法人ごとに独自にそれらを考えていくために、スケールメリットも生まれにくい。そしてそれらを実現するために戦略的発想で、かつ実行力を伴いながら物事を進めることができる人材を惹きつけ、継続的にコミットしてもらうことも、行政的な予算や報酬に対する硬直的考え方からできない。
もちろん、他の一般社団法人との受注競争など、便利さを追求するための競争が生まれる仕組みは存在するし、適切な”DX予算”を割り当てているというのが行政側の立て付けなのでしょうが、実際には競争は民間企業と比較して非常に限られています。そして予算に関してもシステム開発におけるシステムの水平的な適用によるスケールメリットや、そのための業務オペレーションの自治体間での統一・規格化の必要性などの基本的教養を持っていない人が意思決定しているというのが現実だと思います。
行政機関に属する人が、”普通の人”ばかりであること、さらに”普通の人”に合わせてサービスを設計することが求められるのも一因でしょう。
一般に、優れたサービス・プロダクト開発においては、ターゲットを適切に絞った上で、もちろん収支が成り立ち、持続的にサービスを継続できるようにスケールするようにターゲットが狭すぎないようにも気を遣いながら、ある人には刺さるけど、別の人には刺さらないというものを追求するのが定石とされています。
一方で、行政サービスというのは、サービスの受益者全員の公平性というのを少なくとも形式的に重視します。つまり、時間がないから多少お金を多めに払ってでも待ち時間を減らしたいとか、時間はたくさんあるからとにかく安くしたいとか、そういった極端な需要に振り切ることがやりづらいわけです。さらに、行政に携わる人々の属性としても、公務員という比較的集団の構成員が持つ消費者的な属性(収入、リスク選好度、時間的余裕など)のばらつきが小さい方々が起案の中心になります。
このような形で、行政サービスという対象に働く最適化圧と、そこに携わる個々人の属性の両方において、優れたサービス・プロダクト開発の定石とは逆行する方向性に行きやすいのが現状でしょう。
イケてない仕組みが出来上がることについて個人に責任はないのか
こういった話をすると、そこで働く個人に責任はなく、仕組みが悪い〜というような言い振りでお茶を濁す方がよくいらっしゃるのですが、私はこういった態度は、建設的な批判的思考を生む機会を失わせ、無思考で無責任な態度を世に蔓延させるものと考えています。
そういった態度の結末としては、仕組みが悪いとして仕組みがどうできあがっているかを考えていった末に、最後に例えば内閣総理大臣までその責任の帰属先を遡って行っても仕組みが悪いということになってしまうのではないでしょうか。こういった姿勢は現状を改善できるだけの権限や行動する能力を持っているにも関わらず、他者とぶつかることを避けて精神的・物的負担を避けることを優先しているに過ぎないように思います。
最後には内閣総理大臣も世界の仕組みのなかで動いているにすぎず、世界の仕組み作りに関与する人々も物理法則に従っているにすぎないから、地球や宇宙が悪いということになるんでしょうか。そんなことを言っていても仕方ないわけです。
ただ、これは民主主義的な方法の限界のようにも思います。民主主義はみんなで決めたことを重視する代わりに、その決定の結果起きたことを誰か1人独裁者の責任だとすることもできないわけです。なぜならあらゆる意思決定は誰か1人の独裁者が勝手に決めたわけではなく、みんなで決めたことだからです。そして、現代の国家を構成する人数が人間が認知できる社会集団の規模を超えて圧倒的に多い以上、自分が意思決定に寄与する割合が限りなく小さくなりますから、そこに所属する構成員個々人においては社会的手抜き、オーナーシップの希薄化が生まれます。
さて、話が逸れましたのでバドミントンコートの例に戻りましょう。
これらの意見に対する反論として、そもそもバドミントンって何らかの団体に属してやっている人がほとんどなんだから、個人開放に対してそこまで仕組みとか考えて円滑に回るようにすることの意味ってないんじゃない?というのがあり得ると思います。
ただ、上述したような非効率な運営は、なにも個人への一般開放だけに限られず、団体予約時にも存在するのです。僕は過去にバドミントンサークルの代表として、団体登録手続きや団体利用の予約を行っており、その非効率性を自分自身で目の当たりにしましたから、間違いありません。もちろん、7年前のことですので一部変わっていることはあるでしょうが、個人の予約システムを調べるついでに団体についても少し調べたところ、大きな変化はない様相でした。
究極的に、行政管理下の体育館のようなイケてない仕組みが出来上がるのは、私たち自身の責任と言うほかありません。これらの施設の運営に関わる人々が、私たち市民・区民自身が望んでいることを読み取った結果として、今の仕組みが出来上がっているように思います。
こういった状況を根本的に解決するためには、
- ①私たち民衆の“公平性“に対する認識の変化
- ②その公平性を実現するための優れた制度設計者の存在
の両方が必要です。
①について、私は例えば人々を次のような複数の好みを持つある程度の規模の集団に分類し、それらの集団に最適化した尖ったプランが複数、それらの集団の規模に応じて設定されている状態を公平であると考えます。
- 時間を取られないことを重視し、お金の支払いには抵抗がない人向けのプラン
- お金を取られないことを重視し、時間を使うことには抵抗がない人向けのプラン
しかし、このような考え方は必ずしも多数派ではないでしょう。この話はマーケットポートフォリオのような話と似ていて、中程度のパフォーマンスを出す株式を1つ買うのではなく、様々なリスク・リターンの銘柄をマーケットの構成比率に応じてバスケットとして購入することが、最適なポートフォリオであるというような考え方に近しいかもしれません。
個々の要素を切り取ると極端な性質を持つものばかりだけれど、全体として釣り合いが取れているというような状態は、建前であろうと公平性を重視しなければならない意思決定主体が作り上げるのが難しい状態だと思います。そういった状態を実現するための方法を真面目に考えるなら、行政はできる限りコンパクトになり、民間にできる限り任せるということになるのでしょうが、小さな政府路線の動きは、日本では近い未来に起こりそうもありません。
ITによる効率化はリソース自体の不足を解決しない
それではこういった現状に対して、ITによって例えば予約システムを充実させるような方向性は、問題をうまく解決できるでしょうか。
私の意見はNoで、ITによる効率化は、リソース自体の枯渇には対処できないと考えています。
結局のところ、予約システムを導入して予約が容易になったとて、それは限られた予約枠を予約システムを使える人から順に取れるようになることにすぎません。
限られたリソースにアクセスできる人は変化するでしょうが、アクセスできる人数自体は変化しないというわけです。
つまりこういった効率化はあくまでゼロサムゲーム的であり、世の中の余剰を本質的に増やしているとは言えないということです。
インターネット広告市場、インターネット人材紹介サービス、インターネット予約サービスなど様々なサービスがインターネット・IT技術によって便利に高速になりました。僕たちはこういったゼロサムゲーム的側面を直視しなければならない時期に差し掛かっているのかもしれません。