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2024-11-04
#雑記#読書記録

書籍「君たちはどう生きるか」は説教おじさんの話だった

吉野源三郎先生の「君たちはどう生きるか」を読みました。

昨年2023年に上映されたジブリ映画を見たときに読もうと思っていたのですが、気づいたら1年以上が経過していて、ちょっとした契機があって本書を読むことになりました。

映画と書籍


多くの方がご存知かと思いますが、映画と本書には直接的な物語的な意味での繋がりはなく、映画内で本書が登場するシーンが出てくる程度です。

もちろん、同じタイトルで映画内にも書籍を登場させるということで、監督が鑑賞者に対して本書を想起させることを意図していたり、本書を制作過程で監督自身が意識していたりといったことは間違い無いでしょう。

新しい時代を覚悟を持って生きる

僕は映画作品について、最後のシーンから“新しい時代を良い時代にしていくためには、古い時代に積み重ねられてきた因習や執着を、勇気を持って断ち切らなければならない”といったメッセージを感じました。

映画内では、悪意の石を積み重ねながら、これまでギリギリ維持してきた世界が崩壊していく中で、その世界の中で新たな秩序の維持者として生きていくのではなく、亡くなった母親に対する執着を断ち切り、新たにできた繋がりとともに自分の世界を生きていくという主人公の決断が描かれます。そしてそのような主人公の決断を描くことで、僕たちが生きる成熟した現代社会で、あなたは過去のしがらみや執着とどう決別して新しい時代を作っていくのか?という問いを投げかけられたように思います。

映画作品の商業的成功と監督のこだわり

一方で、本書のテーマはまさに「君たちはどう生きるか」というテーマをより直接的に問いただしてくるようなニュアンスを持っています。

一般的に映像作品というのは、その短い尺と聴覚・視覚という書籍よりも圧倒的に変数が多い表現力の中で、一気に畳み掛けるような情報量と物語展開で、飽きさせないような性質を持っています。それゆえに鑑賞者が余韻を感じたり、物語に対して考えを巡らせる時間を持ったりというのが難しい作品が、大衆向けの映画作品を中心に多いです。こういったエンターテイメント性を重視した作品作りは、映像作品を作るという過程に多くの人が関与し、必要な機材等も高価であるためというのが大きく、商業的な面で一定の規模に至らなければ、作品を作ることもできないというのが影響しています。

映像作品がたくさんの人が理解できるような直接的なイメージに訴えかける力を持つことと、そのような映像作品を作るコストの高さゆえにマスに受け入れられなければ商業的に成り立たないことは、表裏一体であるというわけです。

しかし、映画「君たちはどう生きるか」の場合にはそういった商業的成功を必要な規模で成り立たせながらも、鑑賞者に余韻を与えるような作品になっているように感じました。作品自体はハイテンポで進んでいきながらも、その作品の随所に散りばめられたメッセージには、解釈の余地が多分に残されているといった感じです。作品のプロモーションについても、上映前のメディア露出がほぼなかったように、商業的な成功を積極的に追求しにいかない姿勢を表現することが、逆に作品の商業的成功度合いを高めたように思います。結果的には、本作は日本だけでなく海外でも大ヒットを収め、商業的にも大成功することとなりました。

こんな芸当は宮崎駿さんぐらいにしかできないでしょうが、自身、そしてスタジオの仲間とが積み上げた信用を最大限活かして、自身の監督人生の集大成としての作品を、納得いくまで作り上げて世に出すということにこだわった作品なのでしょう。

一方、興行収入を見ると、93.3億円(2024年5月12日現在:興行通信社調べ)で、1997年の『もののけ姫』から続いていた100億円超えには届かなかった。

むしろこれまで以上の大きなムーブメントを巻き起こしたのは海外だ。2023年12月に北米で “The Boy and the Heron” のタイトルで公開されると、すぐに週末興行ランキングのトップに立った。米国で海外映画がトップになるのは異例のことだ。最終的な興行収入4679万ドル(2024年4月30日現在:Box Office Mojo調べ)は、これまで北米公開されたスタジオジブリ映画のトップだった『借りぐらしのアリエッティ』(12年 “The Secret World of Arrietty”/宮崎駿は企画・脚本担当)の2.5倍にもなった。

米国だけではない。24年4月3日に公開された中国では同月末までに7.7億元(猫眼電影調べ)、日本円で約160億円超の興行成績を残している。スタジオジブリ作品としては過去最高、中国で公開された邦画としても歴代2位の成績だ。『君たちはどう生きるか』は、日本以外のほとんどの地域で宮崎監督の過去最大のヒット作なのである。

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c03710/より引用。

説教おじさん


同じ名前を冠する、というか元ネタとも言える書籍はと言えば、僕はあえて「説教おじさんが終始子供に説教くさいことを言い続ける物語」と表現したいと思います。

叔父さんは説教くさい

本書は主人公で中学2年生のコペルくんが、学校生活で経験する出来事を通して友情や生き方の美学を学んでいきながら、コペルくんの叔父さんがコペルくんとの対話を通して感じたコペルくんの成長に対して考えたことを手記に記していくという調子で進んでいきます。

本書に対する一般的な評価は、「人生で大事なことを教えてくれる本」といったものだと思います。

僕自身もそのような評価に対して真っ向から異論を唱えたいわけではありません。むしろそのとおりだと思います。その評価自体がたしかに妥当であることを認めた上で、

  • 世界が自分だけでなく、たくさんの人同士の繋がりによってうまく回っていること
  • ある人の経済的な豊かさと、その人物の実態的な世の中への貢献が明確につながっているとは限らないこと
  • 人間は、生まれながらにしてそれぞれが公平ではないスタートを切っていること
  • 素直に自分の非を認めれば、自分の精神的なつっかえを取り除くことができること

など、本書の中身は、いかにも善良な大人というような人物が、いかにも良いことのようなことを言っているな、と感じられる内容で、それこそが本書に登場する叔父さんが説教くさいと感じる所以のように思います。


文化人でないと幸福になれないのか

本書が言いたいことは、教育機会を与えさえすれば誰もが幸福になれるとか、学問を修める機会がある方がそれがないよりも幸せで良いことであるとか、そんな単純なことではなく、児童文学としての分かりやすさのためにまるでそうであるかのように単純化しているに過ぎないことは、僕も承知をしています。

それでもやはり叔父さんの手記はなんだか説教くさいのです。


揚げ足を取るようですが、作品中の叔父さんの手記に出てくる、

  • 「僕たちがあの人々のことを全く気にかけず…」(貧しい人々のことを話す文脈で。)
  • 「人間の誇りである学芸を修めることも、優れた絵画や音楽を楽しむことも…」

といった言葉からは、文化人である作者自身が持つ、人生の中で文化的な取り組みができることこそが幸福な生き方であるという思想が滲み出てきているように思えるのです。

そしてそういった他者の幸不幸を決めつけるような姿勢は、僕はやや傲慢な態度に思えます。このあたりは、今とは比べ物にならないほどに色々な意味(単に学力的な話というよりも、大学に行くということ自体が非常にレアで名家の生まれでなければそういった選択を取ることが少なかったことなど)で狭き門であった大正時代に、東京帝国大学の超エリートとして学生時代を歩み、それ以降も知識人的な立場と自己認識を持って生きた著者の人生経験的な意味での限界を感じるところです。


僕ごときが吉野先生の人生に対して限界などと述べるのはあまりにもおこがましいことではありますが、僕自身エリートが集まる集団、そうでない集団の両方を人生の中で経験して思うのは、エリートあるいは富裕層のような恵まれた人ばかりが大多数を占める世界で育った人と、そうでない人とで、世の中に対する見方が全然違うのです。

学問や文化的な楽しみを知らないままに生きていくことが、人間の誇りを味わえない残念なことであると見做すのは、主としてエリート集団で生きてきたタイプの人の態度だと思います。そしてそう書いている僕自身も、そのような態度を取ることがあるでしょう。


現代社会においても、Xでは「田舎のマイルドヤンキーの方が幸せそう」であるといった発言はよく見るところです。文化的・知識人的なバックグラウンドをそこまで持たず、近視眼的な見方で目の前の問題に対処しながら、自分の周りの直接繋がりがある家族や地元の人を大切にして生きていくことは、実はいつの時代でも最も幸せな生き方だと言えるのかもしれません。

下手に賢いがゆえに世の中のことがよく見えてしまって絶望してしまっているものの、立ちはだかる障壁に強く立ち向かっていくほどの勇気や主体性を持っているわけではないという人をたくさん見たことがありますが、そういう人は物事を理解できる賢さを持つがゆえに不幸になってしまっているようにすら思えます。

現代に生きていたら吉野先生はSNSで炎上するかもしれない

本書を読んで僕が感じたのは、いつの時代でも、恵まれた立場にあって高い能力を持つ人物というのは、気づかないうちに傲慢に見える発言をしてしまうということです。現代社会では、毎日のように誰かがSNSで世の中の何らかの属性を持つ人たちの琴線に触れるような発言をしてしまい、炎上の憂き目に遭うような事態が起きています。

そういった意味において、本書に登場する叔父さんについて、僕は説教おじさんのように見えてしまいました。


本書を読んで、吉野先生におかれましても、もし今を生きていたらそのような地雷を知らず知らずのうちに踏んでしまうタイプなのではないかと感じたのです。

  • 教育を受けられない人に教育の機会を作る
  • 一見すると裕福ではない人が、実は世の中にすごく貢献している

といった分かりやすい善行のように思われていた行動が、本当に中長期的に考えて善行なのかということが問われる時代になっています。分かりやすい善行のように見える行為が、必ずしもそうとは言えない場合があることに、インターネットの発達による知識の伝搬速度の著しい向上によって、みんなが気付けるようになったからです。


僕は今後も本書について問われたら、「素晴らしい良書である」と答えるでしょう。

しかしそれは、本書に書かれている生き方の美学に100%共感しているというよりも、多様化する現代の価値観の中で、自分の価値判断の基準を相対化して俯瞰的に眺める機会を得られるがゆえに良書と言いたいのだということを強調したいと思います。