何でもできることは何もできないことと等しい
生成AIによって作られた文章が世の中に溢れに溢れている。
僕は生成AIによって生成した文章をその使用文脈や読み手などのメタ情報をよく考えずに発出する行動は、SEO用の低品質コタツ記事がその書き手の名声を高めることが決してないことと同じように、その書き手の信用をむしろ下げる方向に働くと考えている。
場面や相手のことをよく考えずに自分本位のアウトプットを渡すという行動が、その行動主体の信用を下げるというのは別に生成AIがどうこうという以前に当たり前といえば当たり前であり、今この文章を書きながらも、何を当たり前のことを言っているのだという声が聞こえてくるかのように感じている。
しかし、生成AIの発達はこれまで以上に、書き手の信用を知らず識らずのうちに下げてしまうコンテンツ生産が世界中で行われるペース、そしてそういったコンテンツを気軽に発出する人の数を、爆発的に増やしてしまう、いや、すでに爆発的な速度と加速度で、それらは増えていると、筆者は考えている。
大コンテンツ時代の到来
僕自身も、油断しているとすぐにそういったコンテンツを生産、発出してしまうし、何ならすでに、そうしないように常に気をつけたいと思っていても、毎日誰かに新世代のコタツ記事ならぬ、生成AIによって作られた文字数あたりの情報量がわずかなコンテンツを、無意識のうちに送ってしまっているだろう。
こういった事象が起きてしまうのは、
- コンテンツ生成のコストが、過去と比較にならないほど下がったこと
- そのコンテンツが、一見すると低品質に見えないほどに、体裁面では整っていること
という、コンテンツ生成がいわば”早い安いうまい”時代が到来したためである。
ちょうどインターネットとSNSの発達によって、2010年前後に誰もが情報の発信者に簡単になれるようになったことと同じように、生成AIの発達は、ある程度の分量で見出し間の整合性が取れていて、文体、誤字脱字がそこまで目立たない文章を量産することを、誰もが簡単にできるようにしてしまった。
SNSの発展は、一部のインフルエンサーへの人気集中を引き起こし、フォロワーやチャンネル登録者の偏りを、現実世界の人気者という規模を遥かに凌ぐ規模で引き起こした。それと同じように、コンテンツ生成能力が民主化したこと = 専門的とされていた能力を持たなくとも誰でも簡単にそれを作れるようになったことは、これまで以上に、そのクリエイター同士の格差を大きくしていくだろう。
すべての人がクリエイターになる
これは何も、インターネット上で文章、動画、写真、イラストといった様々な表現形態で発信をしている人だけに限られた話ではない。
会社員であれば、社内に発出するドキュメントを書く機会もあるだろうし、もっと言うと日常生活のチャット中のすべてのやり取りは文章であるし、写真や動画でコミュニケーションをとる機会だって日常の家族友人間で当たり前に行われている。
そういったいわばインターネットを利用できるすべての人がクリエイターたりうる大クリエイター時代において僕は、
- ChatGPTのような生成AIで作った文章や画像のようなアウトプットを土台に自分のアウトプットを作ることには基本賛成
- ただし、そのままに近い状態でそれを出す行為は、低品質なアウトプットを量産し、信用をむしろ失うことにつながる
という意見を持っている。
今日はなぜ僕が上の意見を持つに至ったかを、特に文章という表現形態にフォーカスしてまとめる。
詳しい話に入る前に結論をかいつまんで言うと、
- ターゲットとする読者や文脈の設定が不十分で、総花的で冗長、かつ結論が不明瞭で一般論的になりがちである
- 文章が内容・形式の両方の面で過度に丁寧で、必要とする情報を最小の時間で得られない文章になりがちである
という2点が、生成AIによるアウトプットの欠点だと考えている。
そして、これはそのアウトプット自体の性質ではないものの、そのアウトプットを発出する人間側の受け取り方的な面で、
- 文章の論理的整合性や誤字脱字、一見したときにすぐに分かるような事実の誤りの少なさといった表面的な品質が高いように発出者を錯覚させることが、そのアウトプットを発出することに対する発出者の心理的抵抗を下げる
ということを引き起こす。
大クリエイター時代に民主化された道具である生成AIがこれら1-3を同時に引き起こすことこそが、一見すると品質が高いように見えて、実は何の新しい情報もなく、執筆者による明確なポジション取り = 受け取り手次第で嫌われても良いという覚悟を持った上での明確な立場の表明もないような、品質の低いアウトプットが世の中に氾濫する原因だというのが僕の主張である。
メタ情報の正確な設定がアウトプットの品質を高める
通常、読み手に感情の変化をもたらす物語であれ、情報伝達を目的とする業務文書であれ、文章執筆の場面では、ターゲットとなる読み手がどういったバックグラウンドの出自で、どういった知識経験を有しているか、またその文書が解決したいと考えている問題や与えたい印象というものが必ず存在する。
そういったアウトプットの目的とでも言えるものが、アウトプット過程で明らかになっていくこともあれば、アウトプットの前に明確になっていることもあるが、他人が読むことを前提としている以上は必ず目的は存在する。
なお、ここでは他人が読むことを全く想定していないし、実際に読まれることもないアウトプットは、今回考える対象としていない。そういった、いわばただ書きたいから書いたもの、そしてそれが誰かに読まれることもないものについては、その内容がどうであれ、誰もそれを認知しない以上、その書き手の信用を変化させることは当然にない。
さて、書き手が考えた順序そのままに書かれた文書というのは一般に読みづらい。いわゆる小学生の日誌のような文章というやつである。
それゆえに、僕はもし本格的な文章執筆前にそういったメタ情報を整理仕切れていないと思うならば、乱雑なメモを思うがままに書いて、自分の頭を整理する機会を設けるのが良いと思っている。
もちろん文章を書くという行為そのものが考えを言語化してまとめる過程になりうるという意味で、書き手がその文章のメタ情報を、書きながら自認していくということはあり得るが、本格的に本文を書く前に、まず簡単にメモとして考えをまとめるという段取りを取るほうが、アウトプットの効率は良くなりやすい。
これは書籍「ゼロ秒思考」のような方法論だが、シャープで的を射た文章を書ける人でこういった方法を実践している人は割と多いのではないか。
▶ex. 小学生の日誌のような文章と、それを推敲して言いたいことが伝わりやすくした文章の例
小学生作文
今日はひろしくんと公園で遊びました。ひろしくんは鬼ごっこをしたいと言いましたが、僕は2人で鬼ごっこなんて盛り上がらないからやめようと言いました。
僕は代わりにブランコで靴飛ばしをしようと言って、ひろしくんは仕方なさそうに僕の靴飛ばしに付き合うよと言ってくれました。靴飛ばしは1時間ぐらいやりましたが、途中からひろしくんはどんどん上手になって、僕より飛ばすようになってしまいました。
僕は始めて30分ぐらいで疲れて休憩しようと言いましたが、ひろしくんはまだまだやりたいと言って結局1時間ずっとやることになりました。
最初はあまりやりたくなさそうだったのに、ひろしくんが僕の好きな遊びを好きになってくれて嬉しかったです。
推敲後
僕はひろしくんとの遊びを通して、仲間と同じことに共感できる喜びを知りました。
ひろしくんと今日2人で遊んだときのことです。
ひろしくんは鬼ごっこをすることを望んでいましたが、僕は一緒に遊ぶ人数を考えて、より2人でも頼みやすいブランコでの靴飛ばしを提案しました。
最初は渋々といった様子だったひろしくんも、徐々に楽しくなり始め、最後には僕よりも楽しんでいる様子だったのです。
この経験を通じて、自分が好きなことを仲間と共有して、その楽しさを共有できる喜びを実感しました。
推敲の意図
時系列順に起こったことを書くテイストの元の文から、言いたいことを端的にまとめた書き出しの一文と起承転結的なフレームワークに沿った書きぶりに変更した。
さて、話が逸れたが、文章執筆においては何を差し置いてもまずメタ情報が重要だというのが僕の意見である。
- その文書を書いた時点はいつなのか
- その文書内の情報の正確性が十分に保たれる時間はどれぐらいなのか(=有効期限はいつまでなのか)
- 読み手は誰か
- 読み手が読む前から持つ知識や経験はどんなものか
- その文書はどういった方法で共有される文書なのか(pdf, webサイト、チャットサービス内のメッセージなど)
- 読み手がそれを読む端末は何なのか
- その端末の画面解像度は何ピクセルなのか
- 端末の文字の大きさの設定は何なのか
- 読み手がそれを読む端末やソフトウェアでは、マークダウン記法が適切に解釈されるのか
- 読み手はその問題を解決するのに何分時間を使えるのか
- 読み手の母国語は何なのか
- 読み手が複数いる場合、そのうち誰にとって分かりやすいことを最も重視すべきなのか
人間が文章を書くときには、自然とこういった情報を考慮している。
書き手がそもそも文章執筆に慣れていない場合や、読み手と書き手の間で日頃からコミュニケーション機会が多くあるわけではなく、読み手に対する想像力を持つことにコストをかけることがアウトプットの品質に大きく寄与する場面では、こういった情報をあえて明文化して書き出し、時間をかけて考えることに意味がある。言い換えると、そういった読み手と書き手の間の理解があえて明文化するほどでもなくすでに進んでいて、かつ書き手に十分な力量を持つケースにおいては、そこまで時間をかけなくても阿吽の呼吸によって、読み手が求めるアウトプットにジャストミートしたものを出すことができる。
コンピュータはメタ情報を最初から理解してくれはしない
しかし、ChatGPTがしばしば日本語の質問に英語で返答してくるように、生成AIは相手が使う言語という非常に初歩的なメタ情報ですら、前提情報として考慮してくれない。このような欠点を、人間からのインプットからアウトプットを生成する時に、インプットから読み取ったメタ情報を明示的かつ自動で入力することや、推論結果をさらに再帰的に入力することで問題設定の深堀りを行うようにしたことで補っているのがο1のようなモデルと理解しているが、やはりまだまだ明示的にこちらからメタ情報を与えなければ、アウトプットが求めるものになりづらい。
もちろんこれはおそらく時間の問題であり、各社の生成AIモデルは、各ユーザーからの普段のインプットをもとに、そのユーザーのメタ情報を学習し、最初の質問からそのユーザーにカスタマイズされたアウトプットを出せるようになっていくだろう。そしてその時間というのは、僕たちが想像しているより短く、半年以内にはそんな問題は解決してしまうのかもしれない。
このようなメタ情報の明示的なインプットは、ちょうどプログラミングでクラスを設計することと似ていて、
- 業務文書とは、執筆日、執筆者、執筆目的、結論、結論に至った過程、参考資料という属性を持つ
- これらのうち、参考資料は任意の属性であって、存在しない場合もある。それ以外は必ず存在する(存在のバリデーション)
- 結論は200字以内である(長さのバリデーション)
というように、対象物をメタ的に捉え、属性の組み合わせとして抽象化していく過程と言える。
余談だが、最近僕が使っているPraud Note AIというデバイスでは、録音した音声を文字起こしして要約してくれ、要約にあたってのテンプレートをこちらから指定することができる。
テンプレートは自分で作ることもでき、このテンプレート作成作業もまさに、文章のメタ情報を設計するプロセスやクラス設計と同じことをしている

何でもできることは何もできないことと等しい
ここまで、メタ情報の重要性について語ってきた。自分向けにカスタマイズされ、指定された形式でアウトプットをするソフトウェアというのは、計算できることであれば何でもできるプログラミング言語という状態から、自由度をあえて下げて、できる範囲を限定したものと言える。
あなた向けにカスタマイズされた生成AIモデルは、あなた以外の人にとっては、あなたしか知らない情報を端折って情報を伝えてくる、言葉足らずなもの、もしくは、常識として知っている前提として良い事項について過剰に説明をしてきて、話が長く鬱陶しいものになるはずである。
極端な例をあげよう。あなたが日本語の読み書きをできるのであるならば、日本語の文章がひらがなとカタカナ、漢字、ときどきアルファベットによって表現されることや、その文字の順序の入れ替えによって出来上がる語彙についての知識をわざわざ説明されずとも、日本語で書かれた文章を理解できるだろう。
それにも関わらず、”まずは日本語とは……”という節から、20万字に渡って日本語の読み書きの解説から始まる文章を仕事相手から渡されたとしたら、あなたはもう二度とその相手とは仕事をしないと決めてしまうかもしれない。
つまり、どんな相手であっても分かるように、その文章を理解するために必要とされるあらゆる前提知識を書いていくというのは、明らかに効率が悪いのである。”背景情報から丁寧にコミュニケーションをした方がいい”というような、しばしば新人教育のような指導は、とにかく丁寧に長い文章を書けば良いということを言っていない。
適切なコミュニケーションというのは、言葉足らずであってもいけないし、言葉が過剰であってもいけないということだ。
余談だが、僕は言葉が足りない人よりも言葉が過剰な人の方が苦手で、相手の説明で分からないことがあればこちらから質問するので、長くダラダラと話すのはやめてほしいと考えるタイプである。
生成AIから返ってくる返答は、適切にその回答に求めるメタ情報を指定しなければ冗長になりがちで、総花的に誰もが理解できることを目指したものになりがちだ。
何でもできると言うといいことのようだが、これを突き詰めていくと、上に書いたような計算可能なものなら何でもできるプログラミング言語に行き着いてしまう。
情報というのは、世に溢れるたくさんのものから、相手にいま必要なものを最も少ない量で届けることがベストであり、たくさんの情報の山を与えて、この中のどこかにありますからよろしくね、というような振る舞いは、さながらバベルの図書館に相手を放り込むようなものである。
僕は、生成AIを使って文章をドラフトする行為には特に反対意見を持っておらず、むしろどんどんやるべきだと考えている。
しかし、メタ情報を適切に指定せず、ターゲットとなる読者やその目的が曖昧なままに文章を作成し、”嘘はついてませんし、正しいことを書いています”というように渡す行為は、極めてプロ意識に欠けていて、その人物の信用を大きく下げる行動だと言いたい。