説明をしないことが合理的という説明こそが、説明責任を果たすことになる時代
「説明責任」という言葉は、企業、政府、非営利団体などあらゆる行動主体に対して、「分かるように説明せよ」と要求する権利を指す概念である。
かつては、誰に対しても平易な言葉で納得させることが、その主張の正当性を示すための当然の手段とされた。これが具現化したもののひとつとして、「本当に頭がいい人は誰にでも分かるように説明ができる人」というセリフはXなんかでよく見かける言説である。
しかし、現代社会は高度な専門性、知識の細分化、情報の氾濫、さらには学問分野間の断絶といった現実に直面している。
その結果、無理に万人向けの説明を求めることは、逆に本質的な価値や革新の独自性を損ね、組織の効率や意思決定のスピードを低下させるリスクを孕むに至った。
以下、本稿では、なぜ「説明をしない」ことがむしろ真の説明責任の遂行につながるのか、4つの視点から論じ、その論理と現実的な説明の必要性や効率性を明らかにする。
1. 万人向けの説明ができるというのは幻想 ーー 「本当に頭がいい人は誰にでも分かるように説明ができる人」という嘘
1-1. 説明の義務は本当に当たり前か?
かつては、「分かるように説明すること」が当然の義務として位置づけられていた。
学校や企業、公共の場では、誰もが理解できるように言葉を選び、平易に物事を伝えることが美徳とされ、これができることこそがその人物が信頼に値する人物である証と考えられていた。
しかし、今やその古典的な考え方は時代遅れとなっている。秘伝のレシピや名曲の真価を平易な表現に落とし込もうとすれば、その本来持つ奥深い魅力や独自性が薄れてしまうのと同様に、専門家が培った知識や経験も、単純な説明の枠に押し込めることで、本来の意味やニュアンスが損なわれる危険性がある。現実は、複雑な専門知識が持つ微妙なバランスや背景を、表面的な説明だけで伝えることが極めて難しいことを示しており、従来の「誰にでも分かるように説明するべき」という考え方自体に根本的な再考が求められている。
1-2. 知識の洪水時代における断絶:誰もが専門家ではない
現代は、あらゆる分野で専門知識が飛躍的に進化し、情報が溢れかえっている時代だ。各領域で蓄積されたデータや知見は膨大であり、専門家同士でさえその全体像を把握するのが困難な状況にある。例えば、法律の専門家である弁護士と言っても、その専門分野は様々に細分化されている。
すなわち、すべての人が各分野の専門知識を網羅することは到底不可能であり、誰もが専門家であると仮定するのは非現実的だ。無理に万人に主張を理解させようとする試みは、知識の洪水に流される一滴の水のようなもので、実際には個々の深い知見や独自の視点が犠牲になってしまう。こうした現実は、説明の単純化が持つ限界を如実に物語っており、むしろ専門的な情報は専門家同士で共有し、一般向けには最小限の要約に留めるべきであるという考え方を支持するに十分なものである。
現実には、そのような考え方を実現するためには、説明を受ける権利を持つと考えている側の「節度」が重要であり、世の中にはこれが欠如している場面は極めて多い。
1-3. 時間と労力の浪費:説明に伴うコストとリターンの不均衡
全員にある主張を平易に伝えようとする取り組みには、膨大な時間と労力が必要となる。例えば、最先端の技術や経営戦略の詳細を、誰にでも理解できる言葉に翻訳するためには、専門家による何度もの議論と試行錯誤が不可欠であり、そのプロセス自体が組織のリソースを大量に消費する。
こうしたリソースの無駄遣いは、最終的な成果に対して過剰なコストを伴い、かえって組織全体の効率や迅速な意思決定を阻害する要因となる。無理に全員に説明するための努力が、本来注力すべき革新的な取り組みや専門分野での深い議論の妨げになるという現実は、説明責任の本来あるべき姿を問い直す重要なポイントである。
2. 独創性は万人受けのためにあるものではない―革新の真髄
ここまで、説明に必要なコストとリターンの観点で、万人に分かるように説明することは必ずしも合理的でないという主張を展開した。次は、革新的なアイデアが、説明の過程で輝きを失ってしまうということに言及する。
2-1. 一人の鋭い思想が生み出す輝き
革新的なアイデアは、万人受けを狙って生み出されるものではなく、むしろ一人の鋭い思想と独自の経験が結実した結果である。歴史上、数々の偉大な発明や理論は、当初は少数の専門家にしか理解されなかったものであり、その斬新さゆえに、当初は周囲からの批判や理解不足に直面することが多かった。キリスト教からの弾圧を受けた地動説や進化論などは、そのような例と言えるだろう。
しかし、その後に時間をかけてそういったアイデアが評価されるようになった事例は枚挙にいとまがない。こうした革新は、一人の人物が持つ独特な視点と深い洞察力に根ざしており、無理に万人向けに平易な言葉に変換しようとすれば、その本来の輝きは簡単に失われてしまう。革新の価値は、万人に理解されることではなく、まずは専門家の間でその真価が認められることにある。
2-2. 秘伝のレシピを守るために:専門家だけが味わえる濃厚さ
これは例えるならば、あるシェフが長年にわたって研ぎ澄ませた秘伝のレシピのようなものだ。その秘伝のレシピを細部にわたって大衆に説明しようとすれば、前提となる料理に関する理論、その土地の気候や風土から生まれる美味しい材料の話など、短時間では説明しきれない知識を伝達しなければならない。そのような説明を強要すれば、その過程でシェフは、説明の面倒さを嫌って、説明相手には黙って単純化して削ぎ落としたレシピにしてしまうかもしれないし、説明の過程で「なんでそんなことが必要なんですか?」などと聞かれようものなら、「そうですね。やらなくてもいいと思います」などとして、シェフが保持していたレシピの細部のこだわりは失われてしまうだろう。
それはもちろん、技術の進展によって大量生産が可能な「工業製品」になったと言ったり、効率の悪い職人仕事を効率化したと言ったりもできるが、得てして素晴らしいプロダクトの真髄は、細部に宿っている。
専門家が扱う知識や技術も同様に、あえて全体に広く説明することなく、限られた人々の間で受け継がれるべき濃厚な情報として保持されることで、その尖った部分が維持されるのである。平易な言葉に単純化すると、そのレシピの秘密や、料理に込められた情熱、そして微妙な味わいが一切失われ、ただの一般的な調理法にしかならない。つまり、専門性の濃厚さや深さは、あえて専門家同士で共有し、一般への説明は必要最小限に留めることで、その真の価値が保たれるのである。
2-3. 丸め込みの危険性:合意形成が革新を蝕む
多くの関係者の意見を取り入れ、合意形成を目指すプロセスは、一見、民主主義の理想を体現しているように思われる。しかし、その実態は、初期に生み出された鋭利なアイデアが各方面の妥協や意見の押し付けを受け、次第に丸め込まれてしまうリスクをはらむ。これは、名画をコピー機で何度も印刷するうちに、オリジナルの微妙なタッチや色彩が失われてしまうのと同様である。合意形成の過程で、オリジナルの斬新な発想が妥協によりぼやけ、最終的には本来持っていた革新的なインパクトが大幅に削がれてしまう。したがって、革新性のあるアイデアを守るためには、初期の斬新なアイデアを無理に「丸め込む」のではなく、むしろその独自性を維持しつつ、専門家間で議論を深めるべきなのである。
3. リーダーシップと役割分担
さて、ここまで説明のコストとリターンの合理性、そして前提知識の差が大きい者同士で説明を細部にわたって行うことそのものがアイデアの品質を下げることについて述べた。それでは、マネジメント層と現場の専門家のような、典型的な組織の中でのコミュニケーションにおいては、どのように振る舞うのが正しいだろうか。
3-1. トップは沈黙すべし:『無知の知』が導く真のリーダーシップ
組織の上層部は大きな発言力と権限を持つが、現代においては特に、必ずしも全分野に精通しているとは限らない。むしろ、上層部の真の役割は、全体の方針や戦略を示すことであり、具体的な専門的判断は各現場のプロフェッショナルに委ねるべきである。ここで求められるのは、いわゆる「無知の知」—すなわち、自分の知識や経験の限界を冷静に認識し、必要な部分は専門家に委ねる謙虚さである。なお、「謙虚さ」という言葉は感情的なニュアンスを含み、まるで「僕は大したことはないんだよ」というのをことさらに強調することが美徳のように思っている人を見受けることがあるが、ここではそうではなくて、単純に自分の無知さを冷静に認識するメタ認知能力を言っている。
無知であることは特に恥じるべきことではなく、無知を認識していないことが問題というわけである。
上層部が自らの無知を認め、無理に全てに口出しすることなく、適切な距離感を保つことで、組織全体のパフォーマンスは飛躍的に向上する。こうした姿勢こそが、真のリーダーシップであり、組織の健全な意思決定プロセスを支える礎となる。
3-2. 末端メンバーも自律すべし:過度な説明要求が組織を蝕む
上層部から現場に対して説明を求めすぎないこと、口を出しすぎないことが重要である一方で、組織の末端にいる専門家たるメンバーが、上層部に説明を求めすぎないこともまた重要である。
末端メンバーは、しばしば自分の知識の不十分さを補うために、上層部に対して過剰な説明や詳細な情報を要求しがちである。しかし、こうした行動は、上層部が持つ組織横断的な情報、職責範囲に基づく判断や意思決定の権限を不当に疑わせ、結果として組織全体の効率を低下させる原因となる。
末端メンバーは、各自が自分の担当領域に集中し、与えられた任務を自律的に遂行することで、無駄な説明要求による時間とエネルギーの浪費を防ぐべきである。自律性を持って業務に取り組むことで、組織全体の意思決定プロセスがスムーズになり、結果として組織の目的の達成につながる。
3-3. 組織間の適切な距離感:責任範囲を明確にすることの重要性
また、上下の関係だけではなく、横の関係においても、責任範囲の外側に口を出しすぎない自己規律が必要である。
異なる組織や部門間で、すべての情報や意見を完全に共有し合うことは、現実的には極めて困難であり、むしろ混乱を招く原因となる。各組織は、それぞれが持つ背景、目的、内部の意思決定プロセスが異なるため、無理に相手の合理性を追求しすぎると、不要な論争や誤解が生じる。そこで重要なのは、各組織が自らの責任範囲を明確に定義し、その領域内で効率的に行動することだ。相手組織との関係においても、必要最小限の情報共有に留め、互いに専門領域に集中することで、効率的な協力関係が築かれる。この適切な距離感こそが、組織間での混乱を防ぎ、結果として全体のパフォーマンス向上につながる。
4. 低い教養が招く混乱―大衆の意見が意思決定を蝕む
社会全体ではどうだろう。企業や行政組織といった、何らかの所属員の選定プロセスが挟まれる組織においてはまだマシだが、社会全体というあらゆる知識・経験を持ったあらゆる人が混じり合う集団では、より「説明を過度に求めない」ことの実践が困難になる。僕はSNSで、公共性を盾に世の中で起きた不祥事に対して、「社会的責任」という曖昧で反論しづらいものを持ち出し、自分こそが説明を求める権利があるかのように振る舞う人を見かけるたびに、残念な気持ちになる。
4-1. 小学校の教室を思い出す:基礎教養の衰退が示す現実
かつて自分が公立小学校を卒業したときの教室を思い出してほしい。あの頃、算数の分数すら苦手だった仲間たちがたくさんいたことを思い出してほしい。算数ができないことが人間としての価値を下げることがないのは言うまでもないが、そういった人物が判断に関与することが本当にプラスになるのかというのはよく考えなければならない。
基礎的な計算や論理的思考が十分に養われず、専門知識に乏しいまま重要な判断を下すことが常態化している現状は、無理に全員の理解を求める説明責任の根幹を揺るがす深刻な問題である。こうした背景は、組織や社会全体における意思決定の質に直接的な影響を及ぼし、低い基礎教養に基づいた誤った判断が繰り返される危険性を孕んでいる。
4-2. 政治家の『三角関数不要論』:知性の低迷が招く未来
例えば、議員や指導者が「三角関数は必要ない」といった発言をする現実は、基礎的な数学や論理の理解が十分に浸透していないことを如実に示している。こうした発言が一定の支持を得るという事実は、国民全体、さらには指導者層においても、必要な基礎知識が欠如していることを露呈している。結果として、重要な政策判断や経営戦略が、十分な知的基盤に基づかずに行われる可能性が高まり、将来的な混乱や誤った方向性を招く危険性がある。
4-3. 盲目的な意見尊重が引き起こす組織の混乱
現代社会では、大衆の意見が無条件に尊重される風潮があるが、これは必ずしも健全な意思決定に寄与するとは言えない。低い基礎教養や浅い知識に基づく意見を、専門的な議論や検証を経ずに採用してしまうと、本来守るべき専門家の判断や革新的なアイデアがかえって埋もれてしまう。
盲目的な皆の意見採用は、組織全体に混乱をもたらし、結果として意思決定の質や効率を低下させる重大なリスクとなる。こうした現状は、単に大衆の意見を尊重するだけではなく、どの意見に真の価値があるのかを厳しく見極める必要性を浮き彫りにしている。つまり、全ての意見を平等に取り入れるのではなく、適切なフィルターを通し、専門的な視点で判断することが不可欠である。
まとめ:説明責任の本質を見極める―成果と信頼こそが真の評価基準
現代社会における「説明責任」は、単に誰にでも平易な言葉で説明することだけで成立するものではない。高度な専門性と情報の複雑性、そして知識の断絶という現実の中で、無理に万人向けの説明を追求することは、むしろ革新の独自性を失わせ、組織の効率や意思決定の質を低下させるリスクを孕んでいる。
革新的なアイデアは、一人の尖った思想と豊富な専門知識の結晶であり、その真価はまず専門家の間で認められるべきである。
また、組織内では上層部は自らの限界を認め、末端メンバーは自律を保つことで、無理な説明要求によるエネルギーの浪費を避けるべきである。さらに、異なる組織間では、完璧な相互理解を追求するのではなく、各自の責任範囲を明確に定義し、その遂行に集中することが、合理的な協力関係の確立に寄与する。
最終的に、説明責任とは、表面的な透明性や全員参加型の議論だけではなく、最終的な成果と信頼によって評価されるべきものである。
現代の複雑な社会においては、あえて全員の理解を求めるのではなく、各自の専門性と責任範囲に基づいた判断と行動を尊重することこそが、真の革新と効率的な意思決定を実現する最も効果的な方法なのだ。