仕事を効率化するほど仕事が増える構造とその構造の変化
Xを眺めていて、AIの普及によって、仕事はなくなるどころか、人間がやらなければならない仕事はますます増えるというつぶやきを見つけました。
これまでの人類史では基本的に、便利な道具や技術によって、人に求められる仕事の量はむしろ増えてきたという意見にはぼくも同意です。
AIが普及すれば人間は仕事が本当に減るのでしょうか そこで思い出したのは、戦後に農村の生活改善、家事軽減の一つとして、かまどを廃してガスを引こうという運動に、多くの主婦からの反対があったという話 その理由は火の番が唯一の休憩時間であり、かまどが無くなれば別の仕事が増えるからだと
かまどの火の番は彼女たちにとって、誰からも文句を言われない唯一の安らぎの時間 ガスになればそれが取り上げられ、余った時間は別の仕事をしなければならない 便利になれば仕事が増えるんです
交通が発達すれば以前は、1泊できた出張が日帰りとなり、よけいに疲れるなんて話もよく聞きます
「生涯現役、いつまでも若々しく」なんてキャッチコピーも、ようは「死ぬまで働け」の言い換えじゃないですかね
AIの発達でなくなる仕事はあるでしょう しかしそれで仕事量そのものが減るかというと、よけいに人間は働かされるんじゃないですかね そのうち「死んでも働け」を言い換えたキャッチコピーが華々しく躍り出るかもしれませんよ
しかし、人間の能力をあらゆる面で超えるAI、ロボットの実現が見えてきた今、この構造は変わろうとしているように思うのです。
これまでも技術の発展は人々を忙しくしてきた
AIの発展に限らず、僕たちは過去の技術の発展、たとえばインターネットとメール、そしてチャットツールの発展によって、単位時間あたりの生産性を高めてきました。
メールやチャットなどの通信手段が発展し、僕たちは24時間いつでも、今すぐには話せない相手とも連絡を取れるようになりました。このおかげで仕事の「非同期性」が高まり、物理的な距離を超えて業務を進められます。 たとえば地球の裏側にいる人とでもスピーディに、そして異なるタイムゾーンでも非同期にやりとりができるため、グローバルに事業を展開する企業が増え、世界規模での共同作業が当たり前となっています。
一方で、こうした技術の進歩は、人々の余暇を増やすどころか、むしろ人々をますます忙しくしている面があります。伝達手段がファックスや手紙、電話よりも便利になったぶん、連絡が絶えず入ってくるため、仕事から離れる時間が取りづらくなったり、いつでもどこでも「応答しなければ」という暗黙のプレッシャーがかかったりしているのです。
技術の発展によってより忙しくなる理由とAIが変えるその構造
技術の発展がますます人々の忙しさを増大させるような現象がなぜ起こるのでしょうか。
人間は古来より、自らの問題解決能力を強化する手段として技術を発展させてきました。これまで僕たちは、洗濯機や自動車、コンピューターなど、単体のタスク遂行能力で人間を上回る機械やシステムを開発し、それらを「補助的な役割」として活用してきたのです。
たとえば、洗濯という能力では人間は洗濯機に敵いません。だからこそ現代では、ほとんどの人が洗濯板を使って洗濯しようとはしないのです。洗濯機を利用することで、人間は本来洗濯に費やしていた時間と労力を別のことに充てることができるようになりました。 こうして1つの作業が機械に代替されるたびに、人間は「より機械による代替が難しい分野」に時間と労力を振り向け、その分野をさらに発展させてきたとも言えます。
この流れは、資本主義の仕組みとも相性が良いです。資本主義社会では、高い付加価値を生み出せる仕事に対してより多くのお金が支払われます。つまり、技術が進むことで一次産業や二次産業における課題が次々と解決され、もはや新たな付加価値を生む大きな余地が少なくなってくると、自然と産業の中心は第三次産業へシフトしていくのです。いわゆる先進国がサービス業中心の経済構造を持つようになったのは、こうした背景があるためです。
資本主義経済と技術の発展は、新たな技術が今仕事として成り立っていることを、もはや機械に代替できる低付加価値な単純作業にしてしまい、その余力で別の生産活動に取り組むというループを回し続けてきました。
しかしながら、ここで注目したいのは「人間の能力を総合的に超える機械は、これまでは存在していなかった」という点です。歴史的に見れば、機械は特定のタスクを極めて効率的にこなす代替手段であったため、それらが人間の仕事を一部置き換えることで、また別の未解決の問題へ人間が取り組む余地が生まれる、という循環が生まれてきました。
これは「技術によって仕事が減るはずが、むしろ忙しくなる」という現象の根底にもある構造です。人間は常に新しい問題や高い付加価値を求め、その結果としてやるべきことが増えてしまうわけです。そして高い付加価値を生まなければ、対価をもらえない資本主義経済という仕組みがそのような人間の動機を生み出しました。
ところがもし近い未来に、AIやそれが作り出す物理的機械が、人間の知的能力や物理的な労働による問題解決能力を「総合的」に超えてしまうような段階(いわゆる汎用人工知能とそれが搭載されたロボット)が到来したとしたら、話は変わってきます。単なる「部分的なタスクの効率化」ではなく、人間が取り組むあらゆる課題が、機械によって包括的にリプレイスされてしまう可能性があるのです。
そうなったとき、ついに人間はこの忙しさがいくら技術が発達しても増していく構造から解放される反面、「自分の仕事や役割とは何なのか」「社会の中でどのように他者に貢献すればいいのか」という根源的な問いに直面し、別の意味で混乱を招くかもしれません。
つまり、技術が段階的に進歩している現代においては、「今まで機械に取って代わられた部分」を除いた新たな領域で人間は働き続けているので、結果的に忙しさが増えている面があるのです。そして近い将来、総合的に人間を凌駕する機械が誕生したときには、その忙しさの増大構造の在り方自体が大きく変わっていくはずです。
働くことは苦しいことなのか
そのような未来が訪れたとき、人間は「働く」ことによる他者貢献感を失い、かわりに「自分は社会から求められていないのでは?」という不安や孤立感にさいなまれるのかもしれません。
人間は社会的動物であり、誰かから必要とされるという「他者貢献感」を得られなければ、生きづらさを感じがちです。それゆえ、AIが仕事を奪う時代には、労働以外の方法で自分の存在価値や役割を確立しなくてはならない、という課題が出てきます。
AIによる効率化がさらに進んで「人間が仕事をしないほうが生産性が高い」状況になったときときーーそれはまさに、現在の公道を馬車が走るのを想像してみるとわかりやすいかもしれません。自動車が当たり前の社会では、わざわざ馬車を走らせることはかえって交通を妨げるし、事故やトラブルも増えかねません。そうなると、馬車を走らせること自体が「マイナスの仕事」になってしまうわけです。
将来的に人間がAIに生産性で圧倒的に劣るようになると、「人間が仕事をする」こと自体が似たような扱いを受けてしまうかもしれないのです。いや、僕はそのような未来が近くに来ることを確信しています。どんなに短く見積もっても、10年以内、2035年までには、ほとんど全ての人間がそうなるでしょう。
その前の段階で、50%ぐらいの人間が「仕事をするほうがマイナス」な状態になった段階で、大きな価値観の変化が社会全体を覆うはずです。プロテスタント的、儒教的な真面目に勤労することが美徳であるという価値観が、旧時代のものになるのです。
とはいえ、働く場が奪われたとき、人間はどこで貢献感を得るべきなのでしょうか。宗教や地域コミュニティ、文化・芸術活動、ボランティアなど、かつて人類は多彩なかたちで社会参加を行っていましたが、近代以降は仕事が個人の存在意義を支える大きな柱になっていました。AIが進化し、仕事そのものが人間にとって中心的な意味を持たなくなるとすれば、僕たちは新たな「生きがい」や「自己実現」の形を模索せざるを得なくなります。
しかし、それは単純に「職を得て働く」というのとは違う難しさを伴います。仕事というのは「やるべきこと」「与えられたタスク」が存在し、その成果が明確に測りやすい世界です。一方で、仕事以外で自分の存在意義を見いだすには、自分で目的を定め、評価軸を作り、周囲の人々と関係を築いていかなければなりません。そこには「次は何をしたらいいのか」という不安が常につきまとい、一から居場所を作り上げる大変さもあります。
働くことが存在意義の証明にならない時代をどう生きるか
だからこそ今、技術の進歩によって人間の仕事が増えるのか減るのかという論点を超えて、「そもそも人間は何のために働くのか」「働く以外にどんな方法で社会や人と関わるのか」を問い直す必要があるのかもしれません。僕たちがAIという大きな変化とどう向き合っていくのか──それは、単に労働の場を守るかどうかというだけでなく、人間らしい充実感や喜びをどこで獲得するか、という問いでもあるのです。
ある人は、家族や地域コミュニティに深く関わる道を選ぶかもしれません。別の人は、アートや表現活動を通じて自分の感性を広げたいと思うかもしれません。さらに別の人は、いまだ人間がAIより優れていると感じる分野──たとえば心理的なケアや、豊かな感情を共有するコミュニティ運営など──に力を注ぐかもしれません。
どの道を選ぶにしても、そこには「自分の生きる意味」を問い直す作業がつきまとうはずです。AIによる自動化が進む世界では、もはや「仕事があるから、自分は必要とされている」と安易に思い込むことができなくなる可能性が高いからです。だからこそ今、僕たちは「効率化が進めば仕事が増えてしまう」「仕事がなくなったら自分の存在価値はどうなるのか」といった悩みを単なる“嘆き”や“批判”に終わらせず、新しい生き方の選択肢を真剣に考えはじめる必要があるのだと思います。
次の時代は、AIが当たり前のように隣り合う社会で、「自分らしさ」をどう育て、どう活かすか。この問いへの答えは人それぞれでしょうが、そのヒントは、既存の仕事観からちょっと距離を置いた先にあるのかもしれません。働くことから解放されて自由になる一方で、「自分で居場所を作る」「自分で役割を発見する」という責任が大きくなるからです。
こうした視点で見れば、「仕事を効率化すると仕事が増える」というのは、単なる悪循環のようでいて、むしろ僕たちが「本当にやりたいこと」を探し出すためのプロセスとも言えるのかもしれません。それは不幸なことではなく、一種の転機なのです。
仕事を効率化していった結果、もはや仕事がなくなってしまう段階が、近い未来に到来しています。その中で、どうやって他者貢献感を得るのか。このような問を真剣に考えられることに、多くの人が時間を使うようになるでしょう。
まとめ
技術が進歩するほど仕事が増えるという一見逆説的な現象は、機械が人間の一部のタスクを代替し、その分人間が新たな領域に挑むことで、社会の付加価値や課題がさらに広がっていく構造によって生じてきました。
特定の作業を効率化すれば余力が生まれる一方、その余力を活かしてより難易度の高い課題やサービス領域へと人間が進出し、新しい仕事が生まれる──これを繰り返すうちに、人はますます多忙になり続けてきたわけです。そして資本主義という仕組みの中では、高い付加価値を生む仕事が優先されてきたため、結果的に第三次産業(サービス業など)が経済の中心となり、私たちは絶えず“より複雑な仕事”を目指す動機付けを与えられてきました。
しかし、今後AIが人間の知的能力を総合的に上回り、ロボットも含めて物理的なタスクまで包括的にリプレイスできるような状況が現実味を帯びてきたとき、仕事をすること自体の意味合いが大きく変わる可能性があります。これまでは「仕事」という形で他者貢献感や存在意義を得やすかった人間が、AI時代には自分の役割や生きがいを「仕事」以外で見いださなければならないかもしれません。それは単に“働く必要がなくなる”という楽観的な話ではなく、同時に“社会の中でどう必要とされ、どう自分らしさを発揮していくのか”という大きな問いに向き合うことを意味します。
この転換期を不幸と捉えるか、それとも新しい可能性と捉えるかは、人それぞれの価値観次第です。確かに、これまでの“働くことが当たり前”という認識から離れるのは簡単ではありません。とはいえ、自由な時間が増えるぶん、“自分でやりたいことを決め、周囲と協力しながら新しい生き方を築ける”チャンスが広がると考えることもできます。いずれにしても、僕たちは今まさに“労働が生み出す忙しさ”と“AIによる自動化”のはざまに立たされており、働くことと生きることの意味を再定義せざるを得ない段階に来ているのではないでしょうか。
AIで不要になる仕事
AIの発展により、これまで人間が担ってきた多くの仕事が置き換えられようとしています。特に体系的な知識と明確な方法論に基づく仕事は、最も早くAIに代替される可能性が高いでしょう。これは単なる予測ではなく、現在の技術進化を見れば確実に訪れる未来です。
歴史的に見れば、技術の発展によって一部の仕事が機械に置き換わるたびに、人間はより複雑な別の仕事に移行し、全体としての仕事量はむしろ増えてきました。洗濯機が登場しても、その余った時間で別の家事や仕事をするようになり、コンピュータが発達しても、データ処理量がさらに増えて新たな業務が生まれました。
しかし、人間の能力を総合的に超えるAIの出現は、この構造を根本から変えるでしょう。ここでは、AIによって不要になる可能性が高い仕事について考えてみます。
最初に消える仕事
以下のような仕事は、明確なルールと体系的な知識に基づいているため、最も早くAIに置き換えられる可能性があります:
- データ分析:パターン認識とデータ処理はAIが得意とする領域です。
- 基本的な文書作成:定型的なレポートや資料作成は既に高度なAIが担えるようになっています。
- プログラミング:特に定型的なコーディング作業はAIが高速かつ正確に行えるようになっています。
- 会計業務:数値計算やルールベースの判断は機械学習の得意分野です。
- 基本的な法務業務:契約書の確認や法令確認などはAIによる自動化が進んでいます。
- 翻訳:大規模言語モデルの進化により、高品質な翻訳が可能になっています。
- カスタマーサポート:基本的な問い合わせ対応は自動化されつつあります。
次の段階で変容する仕事
より専門性が高いと思われている以下の仕事も、実は体系的な知識に基づいているため、AIの発展とともに大きく変容するでしょう:
- 医療診断:症状から病気を特定するパターン認識はAIが人間を上回りつつあります。
- 投資分析:市場データの分析と予測はAIの得意分野です。
- 教育:基本的な知識伝達と学習進度管理は個別最適化されたAIが担うようになるでしょう。
- 研究開発:データ駆動型の研究はAIが主導する領域になりつつあります。
- 中間管理職:情報収集と伝達、調整業務の多くはAIに置き換え可能です。
本質的な変化:量から質へ
これまでの技術発展では、効率化によって生まれた余力で人間はより複雑な領域に踏み込み、全体としての仕事量は増えてきました。しかし、AIが人間の能力を総合的に超える段階に達すると、この「効率化すれば仕事が増える」という構造自体が変化します。
AIが人間よりも効率的かつ正確に多くの業務をこなせるようになると、むしろ「人間が仕事をするほうが非効率」と見なされる時代が来るでしょう。自動車社会で馬車が交通の邪魔になるように、AIが普及した社会では人間の仕事が「マイナスの仕事」として扱われる可能性があります。
残る人間の領域
体系的知識や方法論で解決できない以下のような領域は、比較的長く人間の仕事として残るかもしれません:
- 創造性:新しい価値観や芸術表現の創出
- 関係構築:共感や信頼に基づく人間関係の形成
- 哲学的・倫理的判断:価値観に基づく重要な意思決定
- 人間的な温かさを必要とするケア:心理的サポートや共感を伴う介護
新しい生き方の模索
AIの進化に伴い、人間は「仕事」以外の方法で社会貢献や自己実現を模索する必要があるでしょう。これは必ずしも否定的な変化ではなく、新たな可能性の扉が開かれるとも言えます。
人間は社会的動物であり、他者から必要とされるという「他者貢献感」を得られなければ生きづらさを感じます。AIが多くの仕事を代替する社会では、労働以外の方法で自分の存在価値や役割を確立する道を探らなければなりません。
地域コミュニティへの参加、文化・芸術活動、ボランティア、家族との関係構築など、かつて人類が持っていた多様な社会参加の形に立ち返ることで、新たな生きがいを見出せるかもしれません。
AIの時代に向けて、体系的知識と方法論に頼る仕事から脱却し、真に人間らしい関わりと貢献を模索することが、私たちに求められる新しい挑戦となるでしょう。