良い家に住んで、良い車に乗ろう
僕は本業の傍で家庭教師をやっている。なぜそんなことをやっているかという問いについては、それだけで1記事書けるぐらいなのだが、端的に言うと、本業の仕事以外でセレンディピティ的な機会を求めて、偶然知り合った1家庭だけやらせていただいている。
その家族はいわゆる富裕層で、誰が見ても良い家と言うであろうほどに良い家に住んでいる。
近年、
- 家は賃貸
- 服はユニクロや無印
- 食事はファミレス
- 車は軽自動車やコンパクトカー(都内ならそもそもいらない派が大多数)
という形で、別に貧乏生活でひたすら質素倹約というわけでもないが、品質と価格のバランスが優れている製品を買うことこそが都会的でイケている価値観であるというような風潮がある。
あなたは、ライフスタイル系Youtuberも、ビジネス系Youtuberも、どう考えても富裕層の経営者も、猫も杓子も「服?ユニクロですよ」と言っているのを見たことがあるはずだ。
良い家や良い車が持つ効果
僕は狭量でつまらない小市民なので、良い家に住んでいる人や、良い車に乗っている人を目の前にしたとき、この人には何か自分が丁重に接するべきすごい人格や能力が備わっているのではないかと考えてしまう。それは何も、その人物だけではなく、その人物の家族に対しても働く効果である。
ある人が他者に対する攻撃的な態度を働かせるとき、それは自分が他者に対して、何らかの側面から見たときの正当性の観点で自分が正しい側にいるからというわけではない。それは多くの場合、その相手が、自分が攻撃しても大丈夫で、その攻撃が有効な相手だと判断している場合である。分かりやすく例を挙げるなら、ヒグマが自分の耕した畑に居座っているときに、「その畑はおれの畑で、君は不法にそこを占拠している」と主張する人はいないし、そこにいるのがヒグマではなく、気の弱そうな老人ならば、同じような主張は押し殺されずに口に出てくるということだ。正義が必ず勝つような勧善懲悪なストーリーのフィクションが好まれるのは、現実世界が勝てば官軍だからだ。
反対に、人が他者に対して丁重な態度で接するとき、それは相手が単純に人格者であるからとは限らない。僕が家庭教師として厄介になっているご家庭の皆さんは、僕から見てリスペクトできる内面的な性質を備えていると思っているが、そのリスペクトの感情自体も、その人の外的な属性に少なからず影響を受けている。
そのような外面的な要素は、自分の他者との関わり方には影響を与えないと主張する人物がいたとしたら、それはむしろ僕からすると、綺麗な心を持っていると思われたい気持ちが出過ぎていて、少しがめつい印象を受ける。
自分だけではなく、家族と暮らす人であれば、家族が良い扱いを受ける頻度を上げ、不快な扱いを受ける頻度を下げるために、良い家に住み、良い車に乗るのは合理的だ。
良い車に乗ると、駐車場の係員の態度が変わる。高級ブランドの服を着ると、ショップ店員の対応が変わる。良い家に住むと、近所の人の接し方が変わる。
これは単なる拝金主義的な価値観ではなく、人間の認知の仕組みそのものに根ざした現象だ。人は無意識のうちに、外見から相手の社会的地位や資源を判断し、それに応じた対応を取るように進化してきた。
あなたが家族や会社の仲間を本気で守りたいと考えるならば、正義というイデオロギーを優先するのをやめて、損得を優先して合理的な意思決定をしなければならない。横断歩道を無視して走ってくる車がいたら、あなたがあなたの子供を守るためには、正義を主張して車に向かって「そんなの道路交通法違反だ」と叫ぶのではなく、すぐさま子供を抱えて走り出すべきなのだ。
「外面で人を判断するなんていう価値観は良くない」と批判して外面を優先しないという意思決定は、あなただけでなくあなたにとって大切な人が損をする結果を生んでいないだろうか。
「でも、そんなの見た目だけの判断で、本質的な人間関係ではない」
そう考えるかもしれない。しかし、人間関係の「入り口」がスムーズであることは、その後の関係構築においても有利に働く。初めから丁重に扱われることで、あなたの心理的余裕も生まれ、より良い人間関係を構築できる可能性が高まるのだ。
擬態と防衛本能
一方で、現代社会において、「質素」という擬態は一種の防衛本能とも言える。特に日本社会では、目立つことへの恐怖が根強い。「出る杭は打たれる」という諺が未だに生きている証拠だ。
このような出る杭にならないようにしようという防衛本能は、多くの人が「服はユニクロ、家は賃貸」でいようとすることに対して、一役買っているはずだ。
しかし、この防衛本能が過剰に働くと、本来の自分を抑圧することになる。あなたがファストファッションを着る理由は、本当に「それが良いから」なのだろうか。それとも「高いものを着ていると批判されるから」という恐怖からなのだろうか。
Youtuberはなぜ賃貸に住んでファストファッションを着るのか
ちなみに、Youtuberのような人前で話す立場の人が、賃貸に住んでファストファッションを着るのには、単なる外界からの攻撃を避けるための擬態ではなく、損得による部分がある。
彼らは、彼らがおすすめする商品を売るためにも、彼らがおすすめする人たちと同じ金銭感覚を持っていることをアピールするのが合理的であることがあるのだ。もちろん、全員がそうではない。
視聴者から「あんな高級車に乗ってるくせに、この商品の良さが分かるわけない」と思われるよりは、「あの人も自分と同じような暮らしをしているから、この商品のコスパの良さが分かるんだろう」と思われた方が商品は売れる。
さらに言えば、「質素」を演出することで、「成功しているのに謙虚」という好印象も獲得できる。これは視聴者の嫉妬や批判を避けながら、影響力を最大化するための戦略的な選択なのだ。
テレビに出ている有名経営者が、「服?ユニクロですよ」と言っているのに親しみを覚える人は多いだろう。彼らに「ヴィトンで毎週買い物してるよ」と言うメリットなどないのである。
しかし、この「演出された質素さ」は、あなたまでもが真似るべきライフスタイルだろうか?彼らの選択は、大衆に影響力を持つための手段であって、必ずしも幸福や成功への最短経路ではない。彼らはわざわざ外面でアピールする必要もないほどにすでに成功して有名になっていて、ファストファッションだけで暮らしていようと丁重な扱いを受けられるというのも、ファストファッションしか着ない有名人が世の中にたくさんいる理由の一つだろう。
本当は良い服を着たいのに周りの目を気にしていないか
一方、有名人でもないあなたは、単にあなたが「調子に乗っている」とか「似合ってもいないのに」と言われることを恐れて、ファストファッションで擬態している。
この恐怖は人間の集団が小さな村で暮らしていた時代から存在する、人間社会で人間が普遍的に感じる恐怖である。
このテーマについて考えると、僕が昔、母にMINIでも乗ったら?と言ったときの反応を思い出す。彼女は、「そんなの田舎で乗ってたら目立つから軽でいいのよ」と言っていた。
良い服を着て、良い車に乗れば、確かに批判の目にさらされることもあるだろう。「あいつ、調子に乗りやがって」「あの服、あの人には似合ってない」という声が聞こえてくるかもしれない。
しかし、ここで立ち止まって考えてみよう。あなたの選択を批判する人々は、あなたが成功すること、あなたがあなたらしさを発揮して楽しく生きていくことを恐れているのではないだろうか?あなたが「普通」の枠を超えることを、自分自身の安全地帯が脅かされるかのように、あるいは自分自身が頑張ってやりたいことを我慢してやらなければならないことをやってきた人生を、否定されるように感じているのではないだろうか?
あなたが成功するためには、普通の人と違うことをやらなければならない。普通の人が簡単には手をつけないような分野に時間とお金を投下したり、普通の人が周りからの批判を恐れてやらなかったことをやったり、普通の人が楽しく遊んでいるときに自分だけ何時間も何か特定の分野にひたすら熱中したりしなければならないのだ。尖ったプロダクト・サービスを作りたいのなら、他人の批判や冷やかしを恐れてはいけない。ノリに乗っている人物には、ファンと同じぐらいアンチがいるものだ。
成功者の多くは、「調子に乗っている」と言われながらも、自分の直感と判断を信じて行動してきた人たちだ。彼らは「普通」の枠に収まることを拒み、時に周囲から非難され、嘲笑されながらも、勇気を持って自分の価値観に忠実に生きてきた。
環境が人を変える
良い家に住み、良い車に乗り、良い服を着ることの効果は、単に他者からの扱いが変わるというだけではない。より重要なのは、あなた自身の自己認識が変わることだ。
あなたが高級車のハンドルを握るとき、あなたは無意識のうちに「この車にふさわしい振る舞い」をするようになる。良い服を着るとき、あなたの姿勢は自然と正され、自信が生まれる。良い家に住むとき、あなたの生活習慣や思考パターンまでもが洗練されていく。
そして最大の良いことは、あなた自身が「自分は普通の結果では終わらない」、あるいは「他人と違うことをやる」人間であることを、他者に伝えることに恐れを抱かなくなることだ。普通の結果で終わらないために必要な、普通ではない行動を取ることに慣れよう。
良い環境に身を置くことは、あなたが「普通ではない一角の人物」になるための第一歩だ。それは単なる見栄や虚飾ではなく、自分自身の可能性を最大限に引き出すための戦略的な選択なのである。
リスクを取る勇気
良い家に住み、良い車に乗り、良い服を着るという選択は、ある種のリスクを伴う。それは経済的なリスクだけでなく、社会的なリスクでもある。
「分不相応」と批判されるリスク。「見栄っ張り」とレッテルを貼られるリスク。「調子に乗っている」と揶揄されるリスク。
しかし、リスクを取らずして大きな成功は得られない。「普通」の範囲内でのみ行動する人間が、「普通ではない」結果を得ることはできないのだ。
リスクを恐れて行動できないのであれば、あなたは一生「無難」という檻の中で生きることになる。本当の自分を解放し、可能性を最大化するためには、時にこのようなリスクを取る勇気も必要なのだ。
まとめ
良い家に住んで、良い車に乗って、良い服を着て、良いものを食べよう。
あなたが本当にそれを良いと思ったのならば、勇気を押し殺して擬態している場合ではない。
自分の感情に素直になることは必ず、あなたが普通ではない一角の人物になるための心の障壁を取り除くことになる。
外的な属性が持つ力は他者からの扱いを変えるだけでなく、あなた自身の自己認識をも変える強力な触媒となる。
もちろん、ここまでやたらと僕は「良い家」とか「良い車」と繰り返したが、別に高級な商品を買えという話ではない。しかし一方で、自分にとって良いかどうかという基準は、僕たち人間が社会性のある生き物である以上、少なからず他者がどう認識しているかに影響を受けており、そして一定のコストが支払われた対象物ほど、品質が高くなりやすいということがそもそもとしてあるため、傾向として僕たちは高額な商品を良いと感じやすい。そうした中で、特段あなたの経済力を鑑みたときに、お金という側面で尻込みするような金額というわけでもないのに、周囲の目線を気にして自分が欲しいと思ったものを買うこと、やりたいと思ったことに挑戦することを躊躇してはいないだろうか、というのが僕が問いたいことである。それは自分の素直な心に蓋をする行動であり、あなたが人並み外れた偉業を成し遂げる妨げになる心構えなのだ。
僕の話を少しだけすると、僕は最近、美容クリニックでの脱毛に行った後に、近くの古着屋に行くという習慣ができた。僕自身は、小学生・中学生時代に大好きだった「NARUTO」のキャラクターであるうちはイタチのクールで冷笑的で超強いというパーソナリティに強烈に憧れた厨二病精神が、成人して10年経った今でもまだ尾を引きずっており、「古着屋?ふん。軟派な奴らだな。」と言いそうなキャラとして生きてきた。
(でも、やっぱりうちはイタチはカッコ良すぎる。弟を万華鏡写輪眼で見つめながら「いつかオレと同じ“眼”を持って、オレの前に来い」って言ってみたい。男の子はみんな、いつかそう言ってみたいと思ってるよね?)
そのため、周囲の人からはおそらく古着屋に行くやつだとは思われていない。そしてそのように思われることに対して気恥ずかしさがあって、これまでは別に誰が見ているわけでもないのに、古着屋に入るということ自体をやってこなかった。本当はそういう下北沢とか渋谷の神南あたりにある古着屋に入って服を見るということに少し憧れがあって、やってみたいと思っていたにも関わらずである。
そういう自分のくだらない本当にちっぽけなプライド、恥ずかしさのような感情から解き放たれて、自由に行動してみると色々な発見がある。僕が最近古着屋に行って楽しんでいるのは、「ちょっと変なメッセージ性があるトレーナーを探して、1つだけ選んで買う」という遊びで、これをやっていると、世の中にはこんな意味の分からないデザインを作る人がいるのだなと気づくことができる。だからなんだと言われると、別に何かそれを知ったことで明確に得になることがあるというわけではないのだが、人生のスパイスとして楽しい気分になれるだけでも僕にとっては十分で、その楽しい瞬間があることを想像すると、あのとても痛い医療脱毛の時間さえも、その古着屋に行く理由ができるということで、楽しみにできるのだ。
もしあなたが、僕と同じように厨二病を引きずっている後遺症で、あるいは何らかの別の理由で、本当はちょっとやってみたいけど勇気が出ていないことがあるなら、少しの気恥ずかしさを捨てて、代わりに勇気を出して、それに挑戦してみよう。
「質素」という名の同調圧力に従うのではなく、自分の価値観に正直に生きることこそが、本当の意味での自己実現への道だと僕は信じている。
あなたが「一角の人物」になるための第一歩は、外見からでも構わない。その外見が徐々にあなたの内面をも変化させ、最終的には名実ともに「普通ではない一角の人物」へと成長させるはずだ。
リスクを恐れず、周囲の目を気にせず、自分の直感と価値観に従って選択する勇気を持とう。