利権は悪か
“利権”に対するアレルギー的な反応を近年Xでよく見かける。
僕としては、財務省、医師会、NPOといった利権の話題においてしばしば「悪者」として扱われる主体が、悪意を持って利権を作り、そして維持しているというのは、物事を単純化しすぎた捉え方であって、その本質を正確に捉えていないと考えている。
利権の問題点は次の2点に集約される。
- 組織の自己保存的な作用による非効率な仕組みの維持:自己保存的な行動原理を持つ人間が作る組織は同じように自己保存的な行動原理を持ち、その組織が運用する仕組みが時代とともに非効率になったとしても、その組織や仕組みを維持するインセンティブが強く働く
- 民主主義的な意思決定プロセスと保守的勢力の増加による社会の硬直化:社会に革新的な動きをもたらす若年層やその支持者の総量に対して、保守的で現状維持を重視する人々の総量が上回る状態が継続していて、それが変わる見込みもない
あくまでも各行動主体の大半は、善意で自分の職務を全うしており、日本を良くしたいと考えているものの、それが全体として良い結果をもたらさない動きになっているということだ。
- 民意に応えようと皆の意見を聞き、ハードに働く政治家
- 日本を良くしたい、日本に貢献したいと考え、高い志を持って職務に励んでいる官僚
- 自分の活動が弱者を救うことにつながると考え、NPO法人を設立する社会起業家
- 目の前の困っている人を助けたい一心で仕事に励む医療従事者
- 自分が資金を獲得できなければ、研究室の若い有望な院生が、論文に必要なデータを集めることができないと考えて研究資金獲得に励む教授
- 社員の雇用を継続することと、取引先の期待する品質、会社が継続できるだけの利益の創出のすべてを成り立たせることを、上がり続ける原材料費によるコスト増加を、補助金でなんとかやりくりながら目指そうとする中小企業社長
というような、あらゆる属性の善良な人々の行動が、長期的な持続的発展を阻害することにつながってしまう構造ができあがってしまっている。
民主主義の証明としての利権
利権という言葉を聞くと、多くの人は即座に否定的な印象を抱く。汚職、腐敗、特定集団の不当な優遇といったイメージだ。だが、これは根本的な誤解である。利権とは本質的に、民主主義社会における民意の集合的表現に他ならない。各個人、各団体が自らの権利と利益を追求し、それが政治的・社会的に具現化したものが利権なのだ。
医療業界が免許や業登録によって参入障壁を築いていることも、個人の保護であって同時に利権でもあるし、同じ構造があらゆる産業について言える。
成熟した社会は、秩序と引き換えに、各業界のプレイヤーに対して利権を与えるのだ。
民主主義国家で利権が幅を利かせているという事実は、皮肉にもその社会が一定の安定と成熟を達成した証拠である。不安定な社会では利権構造すら形成されない。利権が強固に存在するということは、安定的な生活を築けた人々がすでに多数存在し、彼らの声が社会に反映されていることを意味する。日本のような成熟した民主主義国家における利権構造は、実はその安定性の表れなのだ。
そしてさらに重要なのは、民主主義は別に「未来にわたって社会全体として長期的に繁栄するためのベストな意思決定」ができる仕組みというわけではないことだ。民主主義というのは、民が自分たちで自分のことを決めたというプロセスが正当に行われたということを重視する仕組みであって、良い意思決定を生むための最も良い方法ではない。
より正確に言うと、”良い”ということの価値判断の基準を、どれだけ多数の民が同意しているかに置く仕組みと言える。
小学校のホームルームでの多数決が、ロクな結果を生まなかったことを思い出してほしい。
善意から生まれる利権の実態
善からの帰結
利権は悪意や腐敗から生まれるという通念があるが、実際は逆だ。利権は多くの場合、善意から生まれる。急速に増加している一般社団法人やNPO団体も、基本的にそれに関わる人々は社会的使命感や善意で活動している。彼らの活動が結果として特定の既得権益を守ることになっても、それは悪意からではない。ただし、善意による行動が、全体として良い結果(長期的な持続性がある成長を良い結果と定義する)を生むとも限らない。
それは特に、善意はあるが世の中を理解する能力が高いわけではない人物が行動をする場合に顕著だが、現代社会においてはその複雑性の高さから、ほとんどすべての人間(いや、全ての人間と断定していいかもしれない。)が、世の中の複雑性に対して、世の中を理解する能力が十分に高いと言えない状態に陥っている。
日常に潜む利権構造
スーパーマーケットで買える食品のサプライチェーンひとつとっても、その流通過程では無数の利権が絡み合っている。農家、卸売業者、小売店、それぞれが自らの正当な利益を追求した結果、現在の流通構造が確立された。これらは単に各主体が自らの利益を最大化しようとする自然な行動の帰結であり、本質的に悪ではない。しかし、ゼロから食品の流通経路を考えることを仮定したときに、今の構造がベストな構造で、ゼロから考えても今の状態を作り直すだけだと言えるかと問われれば、一定の教養を持つ人物は心からYesとは言えないだろう。
このような利権的構造を、より効率的で新しい仕組みに置き換える取り組みを現実化するためには、主に次の2つの障壁がある。
- 新しい仕組みに対して、それが成功するという担保がなく、起案者やそれを決定する人物が責任を個として負わなければならないこと
- 現状の仕組みの中で、権益を得ている人物や企業が、新しい仕組みに賛成する動機がないこと
1については、その個人がリスクを取って責任を負いたいと思えるだけの社会的賞賛や経済的成功が期待できるならば、乗り越えられる障壁だが、2についてはより解消が難しい。
なぜならば、2は社会が安定に向かうことそのものと言えるためである。さらに、2におけるすでに何かしらの権益を得ている主体は、1のような新参者が挑戦をする動機を弱める方向に、積極的に社会のルールを変える動機を持っている。
そしてその動機は、社会全体のパイが小さくなる状況においてより強く働くのである。そういった社会の停滞を推進するルールメイキングは、ときに悪意ではなく純粋なる善意から行われる。なぜなら、人間は自分のポジショントークに対して、自分で気づくことができないという性質を持っているからだ。
ほとんどすべての人間が、自身が自動車を運転しているときには、道路の端を走る自転車を危ないと感じ、自身の安全運転に対して相手方の自転車が危険な運転をしているとして、自分の正当性を疑わない。一方で、ほとんどすべての人間が、自分が自転車に乗っているときには、完全に反対の意見を持つのだ。
安定と革新のジレンマ
イノベーションの阻害要因
利権に塗れた社会からイノベーションが生まれにくいのは事実だ。新規参入者が現れると、既存の権利団体や企業は自らの権益を守るために様々な障壁を設ける。日本のタクシー業界やフィンテック分野における規制の厳しさは、この典型例だ。安定は人間の本能として皆が望むものだが、その代償として変革の可能性を狭めている。
資本主義と民主主義の相克
資本主義と民主主義は本来、うまくいっている時期には相性がよい。経済全体のパイが拡大している成長期には、この組み合わせは自由の拡大と経済発展を同時にもたらす。しかし日本のような成熟社会、あるいはパイが縮小する局面では、この関係が逆転する。各利権主体は自らの取り分を守るためにルールの強化を求め、結果として社会全体が硬直化するのだ。
そういった意味で、厳しい状況に置かれている国が独裁体制を取っていることは、偶然ではない。独裁的だが強烈なリーダーシップを持ち、個々人の利益を追求することよりも全体の長期的繁栄を目指す意思決定を単独で下せる体制でなければ、集団として生き残れないのである。
言い換えると、日本が民主的な政治体制をあくまでも維持できていて、官民の各種主体がそれぞれの主張を通そうとした結果として、その集合体として社会のルールや秩序が、少なくとも形としては民主的に形成されている今の日本は、まだまだ余裕があるということなのかもしれない。
未来への突破口
未来を見据えたイノベーションを実現するためには、古い仕組みの中で既得権益を享受している層の利権を時に破壊しなければならない。これは残酷な事実だが、社会の活力を維持するために避けられない過程である。破壊と創造は表裏一体であり、古い構造を壊さなければ新しい価値は生まれない。
勇気あるリーダーシップの重要性
誰もが厳しい未来を直視し、困難な決断を下したがらない。それは心理的負担だけでなく、現状の利権構造から何らかの恩恵を受けている人々が多数派だからだ。人口減少時代の徐々に衰退していく日本でこの現状を打破するには、未来を見据え、時に痛みを伴う決断を促せるリーダーシップが不可欠である。ひとりひとりの個人が、皆が自分の周りだけはうまく生き残りたい、うまくやっていきたいと願っている中で、全体として未来に長期的な繁栄をもたらすものの、短期的には痛みを伴うような決断をできるリーダーが支持される状況は、簡単には生まれない。
利権の負の側面を克服し、社会に新たな活力をもたらすには、勇気ある指導者と、それを支持する市民の痛みを受け入れる覚悟が必要なのだ。
まとめ
利権は本質的に悪ではない。
それは民主主義の成熟がもたらした産物であり、多くの場合は善意や正当な権利追求から生まれる。しかし、利権が硬直化すると社会の革新力は失われ、それは社会全体の緩やかな衰退につながる。
現状の日本では、たしかにもはや1億総利権社会と言えるほどに、すべての国民が既存の社会秩序から何かしらの便益を強力に得ており、変革が難しい状況に陥っている。そういった状況において、とにかく利権をまずは打ち壊そうという発想になるのはある意味正しいと言えるかもしれない。ただし、利権が本質的な悪であるというのは誤解であり、我々に必要なのは、利権を単純に悪と決めつける浅薄な批判ではなく、その本質を理解した上で、未来へ向けた変革の道筋を描く知性と勇気なのだ。