僕らは知性を持つ最後の世代なのか?
2024年5月頃のChatGPT-4oの発表は、僕にとって一つの転換点だった。それ以降、業務はもちろん、プライベートの些細な調べ物から文章作成のアシスタントまで、生成AI(特にLLM)は僕の日常に深く浸透している。この便利なツールを日々使いこなす中で、漠然とした、しかし無視できない感覚が僕の中に芽生え始めている。それは、「人間が連綿と受け継いできた”知性”という営みは、もしかしたら僕たちの世代で大きな断絶を迎えるのではないか」という予感にも似た感覚だ。
LLMは「魔法の調理箱」のようなもの
僕がLLMに対して抱いているイメージは、まるで銀河鉄道999のようなSF作品に出てくる「魔法の調理箱」のようなものだ。材料となる情報(プロンプト)を適切な形式と言葉で投入すれば、望む料理(テキスト、コード、アイデア)が瞬時に生成される。料理に例えるなら、高分子化合物の粉末をレシピ通りに投入すれば、複雑な調理プロセスを経ずとも完成品が出てくるような感覚に近い。
ここで、料理という行為を少し抽象的に捉え直してみよう。料理とは、食材という高分子化合物を加熱、粉砕、整形、酸化、混合といった物理的・化学的プロセスによって加工し、タンパク質の三次構造や四次構造を意図的に変化させ、液体の粘性や食材のテクスチャーをコントロールすることで、人間の味覚や嗅覚、視覚を満足させるアウトプットを生み出す行為と言える。
この視点に立つと、十分な調理機械とレシピデータベースが存在すれば、料理の「技術的」な側面は大幅に簡略化される。実際に、調理家電の進化やカット済み食材、調理キットの普及により、家庭、飲食店での調理プロセスのハードルは下がり続けている。
「何を作るか」を考える知性
しかし、技術的なハードルが下がったからといって、料理に関わる思考が不要になるわけではない。むしろ、家庭やレストランにおいて、「どのレシピを採用するか」「どのような食材や調理器具を選ぶか」「誰に、どのような食体験を、いくらで提供するか」といった、より上流の意思決定、すなわち「コンセプト」を考えることの重要性が増しているのだ。
そして、この「コンセプト」を的確に考えるためには、料理というプロセスが持つ特性――例えば、特定の加熱法が食材の風味や食感にどう影響するか、どの調味料がどの食材の味を引き立てるか――を、実務を通して深く理解している必要がある。言い換えれば、手を動かして料理を作った経験、試行錯誤した経験こそが、優れたコンセプトを生み出す土壌となるのである。
そもそも料理という分野、特にフランス料理や中華料理のような体系化された料理においては、その技術的探求は18世紀の宮廷文化などを頂点として、すでにある種の円熟期を過ぎ、新たな技術革新を生み出す土壌そのものが失われつつある。家庭で日常的に料理をする人の数が減少し、プロの料理人を目指す人の人材市場的な裾野が狭まっているとも言われる現状は、技術発展のフェーズが終わり、「コンセプト」や「体験」といった応用フェーズへと完全に移行した結果と見ることもできる。そしてこの構造的変化は、知性の領域においても同様に起こりうるのではないだろうか。
知性の外部化と「最後の世代」という予感
この料理の例えは、僕たちが直面している生成AIと知性の問題に重なる。LLMは、文章作成、プログラミング、情報収集、分析といった、これまで高度な知性が要求されるとされてきたタスクを、驚くべき速度と精度で代行してくれる。これは、知的な活動の多くを「外注化」できるようになったことを意味する。
この「知性の外注化」が進むと、人間が自ら困難な課題に取り組み、粘り強く思考し、深い理解に至るという経験を積む機会が大幅に減少する可能性がある。料理の例で言えば、レシピ通りに作ることはできても、その手順の背後にある理由(なぜこのタイミングでこの火加減なのか、なぜこの材料を使うのか)を探求する機会は失われる。さらに言えば、より美味しくするための「工夫」――それは基礎的なスキルを身体が覚えるまで繰り返す反復練習(鍛錬)によって初めて可能になる応用力――を試す土壌そのものがなくなってしまうのに似ている。同様に、AIに問いかければすぐに答えが得られる環境では、自力で情報を探し、分析し、複数の可能性を比較検討するといった、知的な「格闘」のプロセスが省略されてしまう。結果として得られる知識やスキルは表層的なものに留まり、応用力や創造性の源泉となるはずの深い理解や思考体力そのものが育まれにくくなるのではないか。
そうなると、社会全体として高い知性を持つ人の絶対数が減少し、やがて人間という種全体が、現在僕たちが持っているような探求心や創造性、深い思考力といった特性を、以前のようには保持しなくなるのかもしれない。もちろんこれは単なる僕たちの変化であり、特に善悪の価値判断を伴うものではない。ただ、現状の知性の外注可能性の急速な向上の帰結として、自らの頭で考え、試行錯誤し、知性を深めていくというプロセスを経験した僕たちの世代が、そのような知性のあり方を知る「最後の世代」になる可能性があると考えている。
『銀河鉄道999』と「完璧な再現」が意味するもの
僕が小学生の頃に夢中で読んだ松本零士の『銀河鉄道999』。今改めて思い返すと、あの物語の一節が、現在の状況を考える上で示唆的に思える。
作中で出てくる高分子を合成して料理を作ることができる”調理器”について、車掌が語る「合成なんて生易しいものではなく、完全に本物を再現することができる」という言葉。これを料理の文脈で捉え直してみよう。もし、料理を「高分子化合物の精密な加工」と定義するならば、この「完全に本物を再現する」技術は、人間の介入なしにあらゆる料理を完璧に作り出す調理器の登場を意味する。
それは、調理プロセスにおける人間の技術や経験、そして何より「さらなる高みを目指す」という技術発展の可能性そのものが不要になる世界だ。人間がそのプロセスに関与しなくなったとき、料理という技術は、もはやそれ以上発展する余地を失ってしまうのではないか。この物語が投げかける問いは、技術が人間の能力を完全に代替可能になったとき、その技術領域における人間の知性や創造性がどうなるのか、という点にあるように思えるのだ。
若い世代とのギャップと教育の変化
この感覚は、僕がときおり家庭教師として関わっている高校生との交流を通じても感じるところだ。僕は知人経由でときどき家庭教師として高校生を教えることがあるのだが、彼ら/彼女らの学習スタイルは、僕たちの頃とは大きく変化している。特に、数学や物理のような、本質的な理解に至るまでに粘り強い思考と試行錯誤が不可欠な学問に対して、じっくりと取り組む経験を積むことが、以前にも増して難しくなっているように感じるのだ。僕なりに言語化するならば、これらの学問を習得するプロセスには、ある種の「鍛錬」が不可欠であるように思う。つまり、基本的な計算や理論式の実数値計算への応用といった基礎スキルを、反復練習によって、いわば無思考でこなせるレベルまで身体に染み込ませる段階が必要なのだ。その土台があって初めて、より複雑な問題への応用や、深い概念の理解に進むことができる。しかし、現代の学習環境では、この地道な「鍛錬」を経る機会そのものが減少しているのではないだろうか。
もちろん、その背景にはSNSの普及による短期的な報酬系への刺激や、可処分時間の奪い合いといった要因も大きいだろう。しかし、それに加えて、分からないことがあればすぐに検索でき、レポート作成もAIが手伝ってくれる環境が、知性を「外注化」する傾向を加速させている面は否めない。自ら深く考える必要性が薄れる中で、知的な探求心を育むことは容易ではない。
知性の終焉、あるいは変容?
僕はこの記事の作成プロセスについても、LLMにこの記事の骨子を与え、ドラフト作成を指示するということをしている。しかし、その「骨子」を考案し、LLMに指示を与えることができたのは、僕自身が料理と化学反応のアナロジーや、AIと知性の関係性といったテーマに対して、一定の時間をかけて反復的に思考を巡らせてきたからだろう。つまり、それらのテーマに対する基礎的な「教養」とも呼べる理解があったからこそ、LLMというツールを使いこなすための問いを立てることができたのだ。
だが、これはいわゆる「メタ知性」があればAI時代でも未来は安泰だ、という単純な話ではないように思える。なぜなら、「メタ知性」の獲得には、基礎的な知的推論技術の鍛錬が必要不可欠だからだ。
むしろ、僕がこうして問いを立てられること自体が、知性がまだ完全に外部化されていない時代の「遺物」である可能性すらある。LLMのようなツールがさらに進化し、問いを立てるプロセス、コンセプトを練るプロセス、つまり「メタ知性」までもが外部化されたとき、人間が主体的に知性を獲得し、深めていく必要性そのものが、社会から消滅するかもしれない。
それは、悲観すべきディストピアなのだろうか? 必ずしもそうとは言い切れない。人類が、かつて肉体労働の多くを機械に代替させたように、知的な労働をも外部化し、その負荷から解放される未来。それは、知性を追求するという営み自体が、もはや人類にとって必須ではなくなる時代の到来を意味するのかもしれない。そこには、善も悪もない。ただ、テクノロジーの進化がもたらす、不可逆的な変化があるだけだ。
そして、その変化の最前線にいるのが、すでにある程度の思考訓練を積み、物心ついた状態でこの技術革新に直面している、僕たちのような世代なのかもしれない。知性を自らの中に育むことを知る、最後の世代。その自覚と共に、僕たちはこの変化を見つめていくことになるのだろう。
変化を見つめる世代として
生成AIは、知的な生産性を飛躍的に向上させ、現在の資本主義社会において高い付加価値を生み出す。それゆえに、企業間の競争原理の中でその導入と活用が進むことは、不可逆と言えるだろう。しかし同時に、それは「知性」というものの価値やあり方を、根底から問い直す契機でもある。
そして一点注意すべきは、料理と知性の違いだ。料理はその目的が人間の味覚を満足させることにある以上、人間がその分野に対する技術や感性を失えば、その発展も止まるだろう。しかし、AIによって外部化された知性は、人間の利便性や効率性を追求する、あるいはAI自体になんらかの目的関数が設定されていて、それが自律的に目的関数の最大化を追い求める限りにおいて、人間自身の知的能力が失われるかどうかとは独立して、自己発展していく可能性を秘めている。この点が、料理のアナロジーだけでは捉えきれない、知性の外部化が持つ特異な側面なのかもしれない。
料理の技術が人間から離れていくように、思考する力が人間から離れていく未来を、僕たちは冷静に観察する必要があるのかもしれない。僕たちが知性を持つ「最後の世代」になるのか、それとも知性が新たな形で変容していくのか。その結末はまだ誰にも分からない。