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2025-08-17
#雑記

仲間と勇気

一人では踏み出せない一歩

僕が普段事業運営に携わっている中で、振り返ってみると、僕がなんとかこれまでやってこれたのは、隣に一緒に挑戦しようと言ってくれる仲間がいるからだった。

「君ならこの事業を任せられるから一緒にやろう」 そう言われたとき、僕が感じたのは自分の能力への自信ではなく、「この人と一緒なら何とかなるだろう」という不思議な安心感だった。今思えば、その感覚こそが仲間の本質を表していたのかもしれない。

最近、ある経営者の友人と飲んでいたときに「なぜ共同創業者が必要なのか」という話になった。彼の答えは明快だった。「能力の補完も大事だけど、本質はそこじゃない。一人だと怖くて動けないことでも、隣に誰かがいると動ける。それが全てだよ」

この言葉を聞いて、僕は自分の経験と重ね合わせずにはいられなかった。

能力補完のためのパートナーという論は本当か

事業を始めるとき、多くの人は「自分に足りない能力を補完してくれる仲間」を探そうとする。技術者は営業ができる人を、営業ができる人は技術者を求める。確かにこれは理にかなっているように見える。

しかし、実際に事業を運営してみると分かるのだが、純粋な能力補完だけを目的とした関係性は意外と脆い。なぜなら、能力の補完は外注でも、アドバイザーでも、場合によってはAIツールでも代替できるからだ。

では、なぜ多くの成功した事業には共同創業者がいるのか。シリコンバレーの成功事例を見ても、ビル・ゲイツとポール・アレン、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン。彼らは確かに異なる強みを持っていたが、それ以上に重要だったのは、お互いの存在が生み出す「勇気」だったのではないだろうか。

勇気の源泉としての仲間

話が大袈裟になってきたが、僕自身の身近な経験を振り返っても、仲間の存在が最も価値を発揮したのは、技術的・専門的な問題を解決してもらったときではなく、「動けなくなった」ときだった。

心理的支えという見えない価値

簡単な課題であっても、一人で取り組むとなぜか手が止まる。自分一人で運営している事業では、簡単なメール一本を送るのに30分悩んでしまったり、簡単な決断に何日も費やしてしまったりする。これは能力の問題ではない。むしろ、自分が頑張らなくても困るのは自分だけだし、後回しにしてもまあ大丈夫という怠慢さ、その怠慢さに屈してしまう自分自身の心の弱さなのだ。 僕は一般的な世の中の平均水準と比べても、恐ろしく怠惰で、色々なことをすぐにサボってしまう方だ。

それでも、隣に仲間がいると「なんとかなる」と思える。あるいは、「なんとかしなければ仲間が困ってしまう」と感じて、自然と手が動くのだ。 実際、仲間が直接その課題を解決するわけではないし、仲間がいるから自分の問題解決能力そのものが高くなるわけではない。ただ、そこにいて「大丈夫、やってみよう」と言ってくれるだけで、不思議と前に進める。

これは単なる精神論ではなく、人間の認知システムに深く根ざした現象だと僕は考えている。人は社会的な生き物であり、他者の存在によって自己効力感が大きく変動する。仲間の存在は、文字通り僕たちの「できる」という感覚を増幅させるのだ。

一人で事業をやっていると、「今日はもういいか」という誘惑に負けやすい。誰も見ていないし、誰にも迷惑をかけない。自分のペースでやればいい。

しかし、仲間がいると状況は一変する。「自分のため」ではなく「仲間のため」に頑張ろうとする気持ちが生まれる。これは責任感というよりも、むしろ贈与の精神に近い。仲間が自分のために時間とエネルギーを投資してくれているから、自分も同じだけのものを返したくなる。

この相互作用が、個人では到達できない高みへと僕たちを押し上げる。マラソンランナーがペースメーカーと一緒に走ることで自己ベストを更新するように、仲間の存在は僕たちのパフォーマンスを引き出す触媒となる。

勇気の連鎖反応

興味深いのは、勇気が伝染するという現象だ。

一人だと足がすくむような局面でも、隣に誰かがいることで一歩を踏み出せる。そして、その一歩が相手にも勇気を与え、相手もまた一歩を踏み出す。この連鎖反応が、結果として大きな変化を生み出していく。

僕たちの会社で新しいプロダクトをリリースするとき、正直怖いと思うことがあった。市場に受け入れられるかどうか、技術的な問題は起きないか、不安が尽きなかった。でも、一緒に取り組む仲間が「いいんじゃない」と言ってくれた。その言葉に背中を押されて踏み出した一歩が、今の事業の重要な成果の一つになっている。

能力と勇気の相互作用

ただし、ここで重要な注意点がある。勇気は空想的なものであってはならない。

仲間が実際に一定の能力を持ち、信頼できるからこそ「この人がいればなんとかなる」と思える。もし仲間が全く能力を持たない人だったら、それは勇気ではなく無謀になってしまう。

つまり、能力は勇気を支える必要条件なのだ。仲間が自分の代わりに問題を解決できるだけの力を持っているという確信があるから、安心して勇気を出せる。しかし、最終的に重要なのは「能力そのもの」ではなく、その能力が与えてくれる「行動するための勇気」なのだ。

能力があっても勇気がなければ何も生み出せない。一方で、勇気だけあっても能力がなければ失敗する。

現代における仲間の意味

AIが急速に発展し、多くの問題解決がツールで代替可能になった現代において、仲間の存在意義はむしろ高まっているのではないだろうか。

ChatGPTは優れた問題解決能力を持つが、僕に勇気を与えてくれることはない。データ分析ツールは正確な予測を提供するが、失敗したときに一緒に立ち上がってくれることはない。そこには実在性、すなわち、勇気を振り絞ってその対象に取り組んだときに、成功と失敗を生身の人間として一緒に引き受けてくれるという、物理的な肉体を持ち、かつ同じ感情励起メカニズムを持つ人間としてのリスクテイク能力が関係しているように思う。

人間が人間と組む理由は、これからますます「勇気」という側面に集約されていくだろう。能力の補完はAIやツールでカバーできても、「一緒に挑戦する」という体験は人間同士でしか生み出せない。

勇気をシェアする存在

結局のところ、仲間とは「能力を貸し合いながら、勇気を引き出し合う存在」だと言える。

能力の貸し借りは契約関係でも成立する。しかし、勇気の共有は、お互いを信頼し、共に歩もうとする意志がなければ成立しない。だからこそ、仲間という関係性は特別なのだ。

僕が今も自分の単体の能力からして、簡単にうまくいくわけではない事業に取り組み続けられているのは、困難な局面で一緒に頑張れる仲間がいるからだ。彼らの能力に助けられることはもちろんあるが、それ以上に、彼らの存在そのものが僕に勇気を与えてくれる。

一人では踏み出せない一歩も、仲間がいれば踏み出せる。その積み重ねが、やがて大きな成果につながっていく。事業において仲間が必要な本当の理由は、そこにあるのかもしれない。