余剰の生産と消費、そして生産性の意味
文学館で見た非効率
世田谷区の文学館に足を運んだのは、土曜日の午後だった。休日だというのに、僕たちの他には、数人の来館者がいるだけだった。
館内は静かで、スタッフは合計すると10人近くはいるだろう。
僕たちが払ったお金は、館内のカフェに2人で約1,500円。他の来館者が数人いたが、この日の売上は多く見積もっても数万円程度だろう。それなのに、10人ものスタッフがいて、館内は隅々まで清掃が行き届き、空調も完璧に管理されている。
経済的合理性の観点からすれば、これは明らかに非効率だ。採算を考えれば、スタッフを減らし、展示を縮小し、開館日を限定すべきだろう。
だが、その瞬間僕は思った。この非効率こそが文化なのだと。
誰も見ていないかもしれない展示室で、静けさが保たれている。利益を生まない本棚の前で、ゆっくりと時間が流れる。この余剰こそが、文学館という空間の本質なのだ。
僕たちが当たり前のように享受している効率的な経済活動は、本当に「生産的」なのか。それとも、過去の誰かが生み出した余剰を、ただ効率的に消費しているだけなのか。文学館への訪問は、そのようなテーマを考えさせられる機会になった。
資本主義は余剰を消費している
いま合理的にビジネスをしているように見える人たちも、実は過去に生み出された余剰にあやかっているのではないか。
富士山の観光産業を考えてみる。登山道がなければ、観光は成立しない。その登山道は、最初に踏みしめた誰かの足跡がなければ存在しなかった。そして富士山に特別な感情を抱く人々の信仰心というのは、商業的側面とは全く関係なく生まれている。
文化遺産も同じだ。寺社仏閣は、その地域の共同体が効率など考えることなく、手を合わせる行為を続けたから残っている。
つまり、現代の経済活動の多くは、その祈りの余熱を燃料にして動いているのではないか。いまの合理性は、過去の非合理を食べて生きている生態系のように見える。
資本主義社会は、効率的に何かを生み出しているように見えて、実は誰かの生み出した余剰を効率的に消費しているだけなのかもしれない。
無駄であることの価値
では、文学館のような一見非効率な施設には、どんな意味があるのか。
僕は、未来のために余剰を残す役割があるのではないかと思う。人間は常に効率化の方向へ流れがちだが、それだけでは余白がなくなる。余白がなくなると、想像力も偶然も生まれない。文学館や美術館、公園や神社は、そうした「何も生まれない時間」を意図的に残す場所なのだ。
税金で運営される場所は、目先の利益ではなく、数十年、数百年先の誰かの「心の発芽」に投資していると言えるだろう。文化予算を浪費だと批判する声もあるが、僕にはそれが長期的な種まきに見える。
ここで重要なのは、無駄なように見えるものは、無駄であることそのものに意味があるという点だ。
効率を追求すれば、文学館は採算の取れる展示だけを行い、スタッフを減らし、開館時間を短縮するだろう。だが、そうした瞬間に失われるものがある。それは「何の役にも立たない時間を過ごせる場所」という価値だ。
資本主義の論理に組み込まれていない空間だからこそ、人は自由に思考できる。この無駄こそが、次の時代の創造性を育む土壌になるのではないか。 逆説的だが、効率化されていないからこそ価値がある。すべてが最適化された世界では、余白も偶然も生まれない。無駄の中にこそ、まだ名前のついていない可能性が眠っているように思う。
赤福の不祥事
僕が中学生のとき、赤福が食品表示偽装で問題になった。父が出張から帰ってくるたびに買ってきてくれる赤福が、僕は大好きだった。あの独特の食感と甘さ、父の出張というちょっとした非日常と結びついた特別な味。
不祥事のニュースを見たとき、僕が最初に感じたのは、食品偽装への憤りではなく、「赤福がなくなったら悲しい」という感情だった。食品表示の偽装は世の中的にたしかに重大な問題なのだろう。だが僕にとっては、赤福が食べられなくなることの方が問題だったのだ。
結果的に赤福は残った。営業を再開したとき、僕は素直に嬉しかった。今でも、ことあるごとに赤福を見つけると買ってしまう。それは単に美味しいからだけではなく、あの不祥事を乗り越えて残ってくれたことへの感謝の表明のようなものかもしれない。
企業が過去の社会的資本を食い潰すだけになれば、人々から拒絶される。だが、社会との感情的なつながりという余剰があれば、不祥事さえも乗り越えられる。赤福の場合、多くの人が僕と同じように「残ってほしい」と思ったのだろう。
美しさも余剰なのかもしれない
この余剰の論理は、人にも当てはまるのかもしれない。
タレントの熱愛報道を見るたびに思う。本来、他人がどうこう言うべきことではないのに、なぜ他人の恋愛に、こんなに多くの人が反応するのか。 美しさは生存に直接関係ない。だが、多くの人が美しいものに近づくために時間と資源を注ぐ。タレントやスポーツ選手、芸術家。彼らが独占されるような出来事が起こると、叩かれるのは、「共有財」の感覚なのだろう。 美しいものや卓越した存在は、単なる個人を超えて、社会全体の誇りや夢を投影される存在になっていく。タレントや人気者は、個人のようでいて実は「社会に共有された感情の投影」なのだ。
中高生のときにも似たような感覚を見たことがある。クラスの人気者の女の子が、おちゃらけた人気者だが、お世辞にもかっこいいとは言えない男と付き合っていることがあった。僕は男の側と仲が良かったので、ラッキーだなお前、程度の気持ちで見守っていたのだが、「なんであいつがxxさんと付き合えているのか」といった言葉を耳にすることもあった。
これこそが、人気者、美しい人物が、「共有財」としての扱いを受けることを表象する出来事だろう。客観的に見て、「付き合うに値するレベル」かどうかという目線が、その男女1組に注がれるのだ。
その人が何をしても話題になるのは、みんながそこに自分の理想や不安を重ねているからだろう。文学館や赤福と同じように、美しさもまた、誰かが生み出した余剰を、僕たちが消費しているのかもしれない。
生産性という限定的な指標
企業で働いていると、「生産性」という言葉をよく耳にするし、自分自身もよく発言する。効率化、KPI、数値目標。すべてが測定可能なものに置き換えられていく。
だが、その生産性は、限定的な意味での生産性に過ぎない。
企業が測る生産性は、経済活動のほんの一角を切り取った指標でしかない。それはあくまで、既に存在する余剰をどれだけ効率よく金銭的価値に変換できたかという話だ。文学館の静けさ、赤福を食べたときの幸福感といったものは、会計にもKPIにも載らない。
だが、そういうものこそが、社会全体のエネルギー源なのではないか。生産性という言葉を掲げれば掲げるほど、どこかで見えない資本を食い潰しているように思える。
余剰は循環する
では、資本主義経済の中で動く企業やその役職員は余剰を生み出さないからだめなのかというと、そんなこともない。
余剰はその消費者がいなければ持続しない。消費されない文化は失われる。
僕は釣りが好きだ。週末になると海に出て釣りをするが、釣りの世界にも、文化を守り育てる側と、それを消費する側がいる。そして両者は、しばしば対立する。
古参の釣り人や船長からすれば、たまに来る初心者の釣り人は、道具の使い方も下手で危ないし、堤防や船上でのマナーも悪い。ゴミを放置する、立ち入り禁止の場所に入る。釣り系YouTuberを見て、表面的な知識だけで来る人が増え、彼らが釣り場を荒らし、地元の人との関係を壊すと感じている人も少なくないだろう。
SNSで釣果を自慢するために、釣り場の写真を背景に入れて投稿する。すると、その場所に人が殺到し、静かで魚が豊富だった釣り場は一変する。古参の釣り人からすれば、新参者は文化の破壊者に見える。
だが、新しい釣り人が来なくなれば、釣りという文化そのものが消える。釣具屋は潰れ、釣り船は廃業し、釣り場を維持する経済的な基盤が失われる。古参の釣り人だけでは、文化は先細るしかない。マナーが悪かろうが、下手くそだろうが、新参者がいることで、釣りという文化は次の世代へと継承される。
だから、破壊も消費も、実は循環の一部なのだ。余剰は生む側と使う側の間で、緊張を孕みながらも、呼吸するように続いていく。
余剰との付き合い方
文学館を出た後、その日の僕は少し違う目で街を見ていた。
コンビニでコーラを買うとき、釣りに行くとき、赤福を食べるとき。すべての経済活動が、過去の誰かが生み出した余剰の上に成り立っていることに気づく。僕は消費者として、その余剰を味わっている。 同時に、僕も何かしらの余剰を生み出せているだろうかと考えた。 効率だけを追求すれば、文学館は閉鎖され、釣り場は荒廃する。だが、余剰を残し続けることで、文化は循環する。
僕たちは、余剰を消費する側でもあり、生み出す側でもある。その循環の一部として、どう生きるか。文学館での気づきは、そんなことを考えさせてくれた。