じゃんけん経済圏の倫理学:AIが価値を生む時代の「働かない尊厳」
賭博はなぜ世界的に、そして歴史的に規制されてきたのだろうか。(*1)
一般的な定義では賭博は「運で結果が決まり、金銭的価値の得喪を争う行為」とされるが、この要件はほぼすべての人間活動に当てはまる。
農業も恋愛も投資も起業も、すべて確率的な現象の上で営まれている。にもかかわらず、賭博は「悪」として扱われてきた。
その理由は表面的には明確だ。 賭博は「生産・信用・社会的価値がないまま再分配する行為」であり、社会の安定を脅かすゼロサムゲーム、あるいはマイナスサムゲームだから、悪だとされる。
しかし、この説明には根本的な疑問が残る。現代の多くの「合法的」な経済活動、例えばリボ払い、投機的な金融取引、過剰消費を促す広告、ほとんど全ての生活必需材以外の消費は、本質的には同じ構造を持っているのではないか。
違いは何かと言われると、それは「管理可能な悲劇」かどうかという点にしかないというのが僕の考えだ。 賭博は負けた人の破滅が露骨に表れる。一方、リボ払いは破滅が静かに分割され、本人が十分な情報を得た上での自身の意思決定の結果であると、世間的に考えられやすい。 だから前者は倫理の問題にされ、後者は金融教育の話にすり替えられる。つまり、社会正義とは「どんな悲劇に涙を流すか」という感情の総和であり、正義は結局のところ民意がどう思うかで決まる。
この視点から見ると、僕たちが善悪のラベルを貼り付けているものの多くは、単に社会がそのゲームのルールを共有し続けることに合意しているだけに過ぎない。そしてこの幻想が最も根本的に揺らぐのが、AIの台頭によって労働の価値が再定義される時代と言えるだろう。
資本主義の根底が崩れる時
資本主義は「労働が生み出す不可価値の差分収奪モデル」に基づいている。労働者が生み出す付加価値が賃金より大きいからこそ、リスクを取った資本家、そして資本家の代理人たる経営者が利潤を得られる。この単純な構造が、数百年にわたって社会を駆動してきた。
しかしAIがその差分を奪うと、構造が崩れる。人間の生産性がAIのコスト以下になった瞬間、雇用の論理が成り立たなくなる。そこで残るのは「付加価値を出せる人」と「マイナスを出す人」の二極(そして後者の方が圧倒的に多い状態になるだろう。僕も含めて、ほとんどすべての人が後者に分類される状態になるはずだ。)だけで、中間層の普通の働き手がいなくなる。
ここで登場するのが「じゃんけん人材論」だ。
じゃんけん人材論:マイナス価値を生む労働を避ける手段
現代社会の複雑化と人間を超える能力を持つAIの台頭により、多くの人間が仕事で付加価値を生み出すことが困難になっている。それどころか、一部の人間の労働は、組織や社会全体にとって積極的に「マイナスの価値」を生み出してしまう。
従来、生産性の低い人材の問題は「いかにして彼らの生産性を向上させるか」という枠組みで捉えられてきた。教育や再訓練を通じて、全ての労働は本質的にプラスの価値を持つ、あるいは持ちうるという、実に人間フレンドリーで、幸福で、人間賛美的な世界観に基づいていた。
しかし、じゃんけん人材論はこの前提を破壊する。非効率であるだけでなく、その人が働くことで生じる調整コスト、ミスの修正コスト、組織の意思決定の遅延などが、その人の生み出す価値を上回る状態が存在することを、多くの人が薄々理解しているはずだ。 このとき、その人材は労働に従事するよりも何もしない(例えば、ひたすらじゃんけんをし続ける)方が、社会全体にとって損失が少ない。
「じゃんけん」は象徴だ。無害で、誰も損をしない。生産性がゼロでも、マイナスではない。
この視点の転換により、課題設定そのものが劇的に進化する。問題は「いかに働かせるか」から「社会的な損失を最小化するために、いかに尊厳を保ちながら働かせないか」へと移行する。
「価値を生まない存在」の禁止と賭博規制の共通点
賭博が禁じられた根っこにあるのは「価値を生まずに再分配することへの恐怖」だった。それは裏を返せば「生産なき存在が社会にいてはいけない」という思想でもある。
歴史的に見れば、この思想は社会を維持するための合理的な選択だった。
- 経済の安定: 賭博はゼロサムかマイナスサムで、そこに生産がない。放置すると労働や貯蓄より「博打で稼ぐほうが早い」と錯覚する人が増え、社会全体の生産性や信用が揺らぐ。
- 権力の管理: 賭博場は支配者の取り分(ハウス)を生みやすい構造で、国家やマフィアが税収・資金源として介入しやすい。「合法にするなら誰が胴元になるか」が常に政治問題になり、結果として「全面禁止 or 厳格管理」に振れる。
- 中毒と貧困の再生産: 確率や損益の認知バイアスを突く形で中毒性が強く、「一部の人が自滅して、他人がそれで儲ける」構図が見えてしまう。
- 社会的信頼の線引き: 投資や商取引も「賭け」だが、そこには価値創出やリスク管理の意図があるとされてきた。一方、賭博は「何も生まない不確実性への純粋な欲望」とされ、宗教的にも倫理的にも「虚無的な賭け」と見られてきた。(後述するように、この点は本質的には「価値創出」とは何であり、「価値創出していない」ものは何かという価値判断を含んでいて、より相対化されやすい点と言えるだろう)
しかし、もしAIが生産を担ってしまえば「価値を生まない存在」を排除する倫理そのものが、社会の維持にとって非合理になる。働かない人を罰することが、むしろ非効率になるのだ。
何が価値創出なのか
「価値創出」という言葉はすでに、社会のルールを前提にしている。だから「合法なもの=価値があるもの」と見なされるのは、単にその社会がそういう物差しで動いているだけだ。
例えば次のようなものが「価値創出」と呼ばれている。
- 広告は「消費を促す仕組み」としてGDPを押し上げるが、過剰消費を生む面もある
- 金融は「資本の効率配分」として称えられるが、実体経済からの接続性が切れて、投機になりうる
- エンタメは「心の豊かさ」を生む一方で、中毒や逃避の温床にもなる。人間同士をマッチングさせて、特定のボードゲームをさせるようなゲームは、「ボードゲーム」という媒介的存在を挟んではいるものの、運(マッチング結果、あるいは双方がミスをするかなどの確率的要素によってほとんど勝敗が決まる)によって勝敗が決まっているという点で、賭博との本質的違いは、金銭をかけているかどうかにしかない
これら全部の「価値」は、結局のところ誰が測るかと、何を社会の目的とするかで変わってしまう。突き詰めると、価値とは他人が共に信じ続けられる幻想の強度で決まる。そしてその幻想がどこまで正当化されるか、そこが倫理と経済の境目だ。
同様に、社会正義も管理可能な悲劇かどうかで決まる。制度による区分は、理屈よりも都合に近い。ギャンブルを禁じてリボ払いを認めるのは、どちらが「社会的に扱いやすい負け方」を提供しているかというだけの話だ。
社会は「負ける自由」そのものを制御している。負け方が制度の外に出た瞬間、悪になる。つまり、正義とは結局、管理可能な悲劇かどうかが左右するのだ。
そしてその悲劇に見舞われた人を「助けたい」と思う心が、制度を動かす。制度は冷たく見えても、根っこには感情がある。破滅した人を見て見過ごせないと感じるかどうか。しかしその「助けたい」にも偏りがある。 見た目に痛々しい破滅には手が伸びるが、静かな破滅には無関心でいられる。だから制度はしばしば「共感されやすい破滅」を優先して助け、「共感されにくい破滅」を自己責任で片づけるのだ。 賭博の禁止は、分かりやすい破滅に陥る人を救っているかもしれないが、自己責任で片付けて良いということになっている破滅を救わない。
働かない尊厳社会の倫理的基盤
従来の倫理では「働かない=怠惰=罪」だった。しかし今後、「働く=必ずしも善ではない」という認識が広がっていくだろう。
賭博が禁じられた根っこにあった「生産なき存在が社会にいてはいけない」という思想は、すべての人間が労働を通じて社会に貢献できる、あるいは貢献すべきだという前提に基づいていた。しかしAIの台頭によって、この前提が崩れる。
そのとき、倫理はこう反転する可能性がある。
働かないことは罪ではなく、限界効用の飽和に対する最適行動である。
賭博の禁止が「生産なき再分配の否定」だったなら、次の時代の倫理は「無生産的行為への寛容」になる。じゃんけん経済圏の住人は、もはや怠け者ではなく、エネルギーを浪費しない賢者として再定義される。
この転換を正当化するには、2つの軸がある。
労働の神聖化の解体
「労働=生産=善」という信仰は、近代資本主義とプロテスタント倫理が作り上げた比較的新しい価値観だ。(*2) 実際には、動けば動くほどマイナスになるケースがますます増えている。AIや自動化がその鏡のようなもので、人間の介在が必ずしも価値を生まない世界が、すでに現実になっている。
未来の人材マネジメントは「いかに能力を発揮させるか」より「いかに無理をさせず、尊厳を保ちながら控えさせるか」にシフトする。これは労働倫理というより、社会哲学の転換だ。
価値を生まない存在の意味の再定義
社会の安定が生産よりも調停に依存するようになるかもしれない。つまり、誰かが「じゃんけんしてるだけ」でも、それが秩序維持に寄与する。動かないことが価値を持つ経済。
資本主義の最終形は、皮肉にも働かない社会を、制度的に管理する方向なのかもしれない。利益ではなく、損失を減らすためのデザイン。そこでは「働かない尊厳」を保証する社会システム、例えばベーシックインカムや限定的参加型経済(週2労働+社会奉仕+AIとの共存のようなモデル)が必要になる。
新しい社会契約に向けての課題
この転換には、いくつかの困難な問いが残る。
- 誰が線を引くのか。「マイナス価値を出す人」と「ゼロを守る人」の線引きは、誰がどう決めるのか。これは能力主義の極端な形になる危険性をはらんでいる。
- 尊厳をどう保証するのか。「働かない尊厳」を保証する社会は、どんな形を取るのか。経済的保障だけでなく、社会的な存在意義や自己実現の機会をどう提供するのか。
しかし、これらの困難な問いに向き合うことこそが、次の時代の社会設計の核心になるだろう。じゃんけん人材論は、単なる皮肉や極論ではなく、雇用の目的そのものを問い直し、未来の社会契約を構想する上での根源的な問いを投げかける。
この「じゃんけん人材論」を認める社会は、むしろ成熟している。なぜなら、それは価値観を相対化し、労働の神聖化という近代の幻想を超えて、人間の尊厳の本質に向き合う社会だからだ。
注釈 *1 歴史的に見ると、古代ローマでもサイコロ賭博が禁止されていた。宗教圏では「労働を離れた富の獲得」は堕落とされた。現代では金融市場やeスポーツ課金も似た構造を持ちながら合法とされている。ここでの線引きは、ますます曖昧になってきている。
*2 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が示すように、「勤勉な労働こそが神への奉仕である」という価値観は、特定の歴史的・文化的文脈から生まれたものだ。人類史を通じて普遍的だったわけではない。