代官山TサイトのIvy Place
はじめに
代官山Tサイト、Ivy Place。 あの場所に漂う「丁寧に設計された空気」を吸い込むたび、僕は胃のあたりにむかつきに近い感覚を覚える。
「自然体」で、「文化的」で、「余裕がある」。 そんな Kinfolk の表紙から抜け出してきたような設定を、わざわざ金と時間をかけて消費しにくる人々。そして、その舞台セットの一部としてMacbookを広げている自分自身。
今日は、あの美しすぎる箱庭の欺瞞と、そこから逃げられない僕たちの「寒すぎる自意識」について考えてみたい。
ナチュラルという名の強欲な演出
あの空間にいる連中を観察していて、僕が一番鼻につくのは、彼らの「ナチュラルさ」の正体だ。
彼らは決して、いかにもな成金のようなロゴまみれの服を着たりはしない。 ジムで仕上げた体に、ユニクロのトレーナーをさらりと着こなし、アウターや小物にだけ「分かる人には分かる」数十万を乗せる。 彼ら/彼女らは「無駄にお金はかけないけれど、上質なものに囲まれて暮らしています」という、現代的な聖人君子のような顔をしている。
しかし、その「自然体」を維持するために、どれほどのリソースが注ぎ込まれているかを考えれば、彼らこそが最も強欲な都会人であることが透けて見える。
- 環境
- 教育
- 経済的余白
- 時間的コスト
これらすべてを隠蔽し、あたかも「最初から自分はこういう人間でした」という顔で優雅に出力する。 特権を特権とも感じさせず、呼吸するように優越感を撒き散らす。 僕が嫌悪しているのは、彼ら個人ではなく、その「努力やコストを構造に溶かして透明化する」手際の良さなのだろう。
要するに、あの場所は「不自然なほど純粋培養された、計算済みの自然体」のショールームなのだ。
終わらない自意識のひとり相撲
さらに救いがないのは、そんな空間を冷笑的に眺めている自分自身もまた、その茶番劇の熱心なエキストラでしかないという事実だ。
箱庭のナチュラルさに心の中で中指を立てる。 すると即座に、もう一人の僕が冷ややかに囁く。 「そうやって冷笑して、構造を理解している自分は『分かっている側』だと思いたいだけだろ? お前も750円のコーヒーを飲んで、その席を占有している一員じゃないか」
これが、知性を中途端にこじらせた人間が陥る、メタ認知という名のただのカッコ悪い空回りなのだ。
- ①構造を嫌悪する
- ②そこにいる自分を嫌悪する
- ③俯瞰して分析している自分に酔っている感も気持ち悪すぎて嫌悪する
この自己批評の空回りには出口がない。 知的に誠実であろうとすればするほど、自分自身のどの感情もそれっぽい演出に見えてきて、信用できなくなる。 俺は自分の醜さも分かっていますよ、という開き直りすら、結局はナルシシズムの変種に過ぎないのだ。 皮を剥き続けても、最後に残るのは「自分がどう見られているか」を気にしすぎて息ができなくなっている、哀れな自意識だけだ。
何も考えずに身体感覚に身を委ねる
じゃあどうするか。 あのキラキラした人たちの仲間入りをして、何も考えずに笑っていればいいのか。
残念ながら、いちいち裏側を覗き見て勝手に不快になってしまうような、面倒で捻くれた性格を治す方法はないのだろう。 一度「これは演出だ」と気づいてしまうと、もう舞台セットの粗ばかりが目に付くようになる。
結局、僕にできるのは、この不快な思考を「まあ、いつもの病気だ」と思って放っておくことくらいだ。 無理やり外に意識を向ける。明日何時に起きるかとか、今日はあと何キロ歩くかとか。
冷笑的な態度は、たしかに「賢く振る舞う」ためには便利なツールだ。物事の構造を見誤らず、適度な距離を保って結果を出すためには手放せない防具と言えるかもしれない。しかし、その防具を常時ONにしていると、目の前にあるものを素直に楽しむ感覚からは、少しずつ遠ざかってしまう。
だから、いちいち裏側を覗き見てしまう捻くれた性格はそのままに、せめてこのコーヒーを飲む間くらいは、分析のスイッチを切る許可を自分に出して、ただ「苦い」という感覚に意識を戻す。
それは構造の解決でも、自分自身の成長でもない。ただ、冷笑という便利な道具に、自分の「楽しむ力」まで食いつぶされないための、僕なりの現実的な折り合いの付け方だ。
僕は近いうちにまたここに来る。そのときは、箱庭の粗探しをする批評家としてではなく、ただコーヒーの苦味を味わって楽しむ人間として、この椅子に座ってみるつもりだ。